東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

発散されない衝動の出口を探すための思考

というわけで夜勤。
2日休んで、夜勤だと感覚的には3日ほど休んだ気分になる。

週末は花火ばかり見ていた。
まず7日(土)。仕事が終わってから板橋花火大会に行くために、IR埼京線の浮間船渡駅へ。駅に降りたら、すでに花火が上がっていた。今年初の花火に興奮。

駅から荒川河川まで歩きながら花火が見れる。花火でかい。河川から程遠いはずなのに音が体に響いてくる。音を体で感じることができるっていうのは、これは本当にすごいことだ。河川に着いたら、信じられない人だかりで座る場所を確保できず。周辺をうろうろしていたら、絶好の位置に広々とした駐車場を発見。花火はいいなぁとつくづく思う。きらきらしていてきれいだ。それにしてもあれだけのでかい花火がどういう力であんな高い位置まで飛んでいくのだろうか。満足して駅へ戻ると、何やら長蛇の列が。何かと思ったら電車の切符を買うために並んでいる人の列だった。とんでもない長さだ。300メートル以上はある。まぁ確かにすごい数の人が集まったからなのだろうけど、こういうときはやはり事前に買っておくべきだな、切符は。

8日(日)。この日も花火を見に行く。埼玉の川口のたたら祭りへ。これは会場が川口のオートレース場だ。会場の前にはオートレースのポスターが貼ってある。元SMAPの森くんもチラホラ出場しているらしい。まぁもう元SMAPでもないか。何年経っているんだって話だ。僕はオートレース場に入るのは初めて。もちろんそういうレースの時の雰囲気は一切ない。屋台が並んで、すっかり祭りの賑わいだ。メインイベントが花火で、これがオートレース場の中である。そんなところで花火あげれるのかなと思ったけど、会場に入ったら確かに花火師たちが準備していた。ラッキーなことに花火の前にプロのレーサーによるオートレースのデモンストレーションがあり、それを見ることができた。すごいエンジンの轟音。コーナーを曲がるときに足を地面につけるとそこから火花が散っていた。これ、真剣勝負だったらもっとすごいことになっているのだろうな。花火の方は、板橋花火大会と違って規模は小さいものだ。それは今では珍しいことなのか知らないけれども、たたら祭りでは花火職人の方が自ら打ち上げていた。でも規模が小さいからこその迫力があった。オートレース場という小さな会場の中で打ち上げるから、音が反響するし、何より花火のが破裂する高さがやけに低い。火の粉が消えない内に地面に降りてくるような、高さで爆発する。それはもう迫力満点。板橋花火大会のようにプログラミングされたドデカイ花火もすごいけど、こういう小規模でもまた違う迫力がある。2日間で2度美味しい花火だった。

昨日9日(月)はなんだか反動で、ちょっとゆっくり起きた。だけど13時に新宿に行かなくてはならなかったので、10時ごろに外へ。すると町内放送が流れた。1分間の黙祷のお知らせだった。長崎の原爆投下の時間だった。またしても無意識だった。なんとなくこいでいた自転車を止めた。このような気持ちで何もできないけれども、せめて自転車を止めて、その時間に同調しようとした。周りでは車が通り過ぎる。道路を工事している人たちが、暑い中、地面を掘り返している。蝉は鳴いている。いつもと変わらない日常。そのなかで足を止めては見たものの、気持ちは何も付いていけてない。あっという間に1分が過ぎ、「ご協力ありがとうございました」という放送が流れる。ひどく短く感じた1分間だった。

12時ごろに新宿へ。今度のリーディング公演に出演をお願いした方に、できている分だけ台本を渡すためだ。それを見て検討してもらう。本当ならきちんと書き終わった台本を渡したいところだけども、まだ全然進んでいない。約束は13時なのでどこか喫茶店でも入ろうかと思ってフラフラしていたら、ばったりその方に会う。お互いやけに早く来ていたのだ。「いやぁ、こういう約束だと、遅れるのが嫌なんで」としどろもどろに言って台本を渡す。すこし立ち話をして別れる。果たしてどう思ってくれるか。それはもうその人にしか分からない。できれば出ていただきたいものだ。

そういうわけで台本は苦戦しながら書いている。いつもにも増して苦しんでいる。やはりリーディングということに少し意識を起きすぎなのか。どうしたらうまく言葉を紡げるか。やけにいろいろ考えてしまい、なかなか書き進めない。あと文法とかにも苦しんでいる。この日記を見ていただいている方なら一目瞭然だと思いますが、僕の文章は文法がでたらめだ。言葉の勉強を今までしてこなかかった僕が悪いのだけれども、せめてまともな文章を書けなければいけない。苦しむ。難しいぞ。

で、今日。台本をチャキチャキ進めねばいけないのだけれども、すっかり現実逃避。銀座のシネスイッチ銀座で気になっていたベルナルド・ベルトリッチ監督の『ドリーマーズ』を見る。1968年学生運動盛んなパリが舞台の映画だ。いつの時代も学生なんて変わらない。自分の好きなこと(この映画では、主人公達は映画好き)と煙草と酒と性のことに夢中だ。この映画の主人公達も、酒を飲み、映画のことについて論争し、セックスに明け暮れる。ただ、時代がたまたま1968年だった。ベトナム戦争に反対したり賛成したり、デモに参加したりする。自分の恋愛のことと、将来のことと、ついでに世界の将来のことや戦争のことについて考える。そこに挫折も栄光もない。僕達の内側には、言葉にできない情念が渦巻いている。衝動的な力。1968年。この時代を生きた若者達はそれを論争することや、デモに参加すること、バリケードをつくること、警察や体制に反抗することにぶつけることができた。もちろんそんなことに参加しなかった人たちもいるだろう。それもまた一つの選択。どのような行動であれ、時代は変わる予感をはらんで動いていた。その結果どうだったかは、まだ僕の勉強不足で知らない。でもその瞬間。そこに生きている若者の内側のうごめく情念が表にあふれ出てくることに僕は共感する。愛だっていい、セックスだってかまわない、好きなことにしか目に行かず、酒と煙草に明け暮れたっていい、勝手に新しい明日が来ると思っていてもいい、全然駄目でもいい。とにかく若い人たちの無我夢中の衝動のようなものに僕は惹かれる。で、その力は2004年の今、どう現れるべきか。どう現すべきか。もはや革命はない。終わりなき日常が延々と続く。しかしそう簡単に、僕達が持っている衝動は消えない。心の奥の方に必ずある。それをこの時代にどう立体にしていくか。ひたすら考える。