東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

映画についてあれこれ

雨は降らないまでも、はっきりしない天気が続く。一つ救いなのは、気温がそれほど低くないこと。寒くないだけで、なんとかやっていける。

昨日の夜、芝居をやるときに何かとお世話になっているFさんと飲む約束をしていたが、ドタキャンをくらった。Fさんは、詳しくは知らないけれども、なんだか忙しい仕事をしているらしく、いつも働いている。この前のリーディングでもずいぶんお世話になったので、ゆっくり飲みたかったけれども、それは後日。Fさんは悪い人じゃないけれど、時間間隔がやけにトんでいる人だ。本人はそういう自覚がないのかもしれないけれども、いつも約束の時間に遅れたりする。この前は夜の10時に待ち合わせをしていたら、ちょっと遅れると連絡がきて、結局現れたのは0時を過ぎたあたりだった。それはそれで面白いけれども。

不意に時間が空いてしまい、素直に帰ればよかったのだけれども、それも寂しいなと思い、有楽町で映画を見る。ウィルスミス主演「アイ、ロボット」だ。有楽町では「誰も知らない」もやっていたのだけれども、なんだか気分的に軽いものが見たくて、前者を選んだ。マンガみたいな映画だった。原作として採用されているのはSF作家アイザックアシモフの「われはロボット」という小説で、それと脚本家のオリジナルを組み合わせた作品らしい。手塚治虫の描いた未来世界のお話みたいな感じの映画。ロボットの顔がやけに人間の顔に似せて作られてあるんだけれども、これが無表情で怖い。何が怖いって、この無表情のロボットが「思っていた以上の行動をとる」ところだ。思っていたより足が速かったり、思っていたより高く飛び跳ねたり、思っていたよりウネウネと動きやがる。しかも無表情で。いちいち驚かすように作られている。

つまり、アレだ。この映画は、このような流れを汲む一連の映画群は、基本的にジェットコースターやお化け屋敷と構造が似ている。如何に観客を驚かせることができるか、という点から作品が、物語が作られている。ハリウッド大作映画とよばれるものにはこういうものが多いと思う。思っていたよりも驚くということには二つの刺激がある。観客は前段階として、驚かされることを容認している。つまりジェットコースターに乗る意志は観客側にあるわけで、観客は驚かされることを期待して映画館に乗り込む。ジェットコースターの上り坂やおばか屋敷の墓の前で、『驚きへの期待』は一層膨らみ、それが下り坂になった時、お化けが出てきたとき、一気に刺激に変わる。ここまでで一つの刺激があり、さらに面白かったと思うには、その刺激が『驚きへの期待』を超えたところにある場合、刺激はもう一段階上にいく。これらの刺激が快感になる。作り手は意図的にこの刺激を与えられるように、ものを作っていく。

それがいわゆる特殊効果の発展につながるのだろう。かつての映画人は物語をよりリアルに、面白くーつまり『驚きへの期待』を超えるーするために、試行錯誤を繰り返した。ミニチュアを作ったり、着ぐるみをきたり、でっかい組み立てをしたり、全世界を飛び回って撮影したりしていた。そうして今、世はCGの世紀。それの始まりは、詳しくは知らないけれども、やはり「ジュラシックパーク」ではなかろうか。ここでCGは、物語の忠実な再現を成しえる。ところがCGによる世界の構築がこの映画によって成功したことを契機に、この物つくりに変化が起こったのではないか。つまり物語の完成度をあげるためのCGではなく、CGで世界を作るための物語が作られたという逆転現象。どうしてそんなことがまかり通るのかというと、それはやはり『驚きへの期待』を叶えることが、物語より優先されたから。作り手の満足ではなく、観客の満足を。それは資本主義としての、ビジネスとしてのハリウッド映画の宿命。

そうなってからは、見る側はCGにお腹いっぱいになる。同じパターンのジェットコースターは何度も乗れば飽きるもの。スピルバーグが優れているのは、決してCGや合成がメインの物語を作らないところ。そこには物語があり、CGや合成はあくまでもその物語を高めるための手段である。

ところがこのCGをさらに別の次元に飛ばした映画が作られる。それが「マトリックス」。CGによる映像を全肯定するどころか、物語までもが今までの現実がコンピューターによる仮想現実という、開き直りにも似た、世界の反転。それまでのCG映画とはまた一線を画く路線を確立する。「アイ、ロボット」はこのグループにいる。かといって実はこの路線もすでに満腹ではある。というか「マトリックス」が最初で最期。本家本元の「マトリックス」ですらこの路線を進むのは困難であり、「マトリックスリローデッド」「レボリューションズ」は再び『驚きへの期待』に応えようとCGを多用したにすぎず、かといって一作目にかなうことなく終わっていった。

こうしてCG全盛の今、また映画は別の道を模索していくのだろう。もはや驚きの映像はすでに過去の話。CGの発展により、『見たこともない世界』はもはや映画の世界では存在しない。『驚きへの期待』はある到達点に辿り着いた感さえある。ジェットコースターそのものに飽きてしまった。そうではない道。それはやはり物語に戻るのだろう。こうして考えていくと、今、どうして僕は演劇という枠の中で物語を作ろうとしているのかというところに、ぐるっと回って少し近づいてくる感じがする。それはまたじっくり考えてから。

そういえば今日が映画の日だった。まぁいい。

話はかわり、今日の十勝毎日新聞のネットで十勝アイヌの住処であったチョマトーから縄文時代の土器が出土したという記事が載っていた。道路整備のために掘られた場所からの出土という皮肉な経緯によるものではあるが、その近辺に貴重な遺跡が埋まっている可能性が高ければ、文化財保護法の基で発掘調査が行なわれるとのこと。道路ができることで恩恵を受ける方もいるだろうが、縄文時代から続く、アイヌの立派な文化を知ることが出来る貴重な機会なのだ。道路はとりあえず諦めちゃえ。なんにしても喜ばしいことだ。