東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『黒沢さんの言葉』

娘子の様態は、少しよくなってきたという。それを聞いてほっとする。嫁氏と電話をした時に、娘子とも話をしたのだけど「ポンポンいたくなってケロケロしたけど、シールをもらったの」と言う。お腹が痛くなってもどしてしまったけれど、病院で診察を受けたらキャラクターもののシールをもらえるのだという。普通に会話になってきたことが驚くし、元気になっている声がうれしい。


で、まぁ、心配は心配だけれども、東京にいる分にはどうしよもなく、昨日は休みだったこともあり、早稲田松竹で映画を観た。ソクーロフの「日陽はしづかに発酵し・・・」が上映されていたのだ。観ないわけにはいかない。初めて観るその映像に、目眩のようなものを覚える。劇中の音楽が流れる部分で、いわゆる音楽とは別の、ボソボソと話される声や音楽が聞こえてくる。SEとも異なるのだけど、この音をひっくるめた世界が、この作品に奥行きを与えているように思う。目眩。上映が終わって外に出ると、雨脚が強くなっていた。けれど、どうも駅に向かう気分にもならず、雨の中を歩いて帰宅。どれほど歩いたか。でも、早稲田から家まではさほどの距離ではない。歩くことも心地いい。


『この世で俺/僕だけ』を監督してくれた月川さんが、作品を黒沢清監督に見せたのだという。月川さんは、黒沢監督が、東京芸術大学で講師をされている学部の教え子だったらしい。黒沢監督の感想は、的確かつ厳しいものだったらしい。脚本に関する指摘もあった。その指摘は以下の通り。

「やくざに狙われる」「警察から追われる」「犯罪」といったドラマ的に非常に重要なことがらを「コミカルにしておけば逃げられる」と踏んで適当に扱っている感じがした。


これに関しては、まったくその通りで、「勢い」重視で書いてしまった点を言い当てられてしまった。さすがと言うか、やはり見る人が見ればその通りなのだろう。この点は、脚本を担った自分の責任だ。本当にそう思う。さらに、黒沢清監督の意見は、本当に刺激を受けるものだった。有り難いのは、作品を映画という点で観てくれていることだ。

以下、月川さんがFacebookにも上げていたので、引用も大丈夫だろうと思い、転載。というかですね、僕が自分用にメモしておきたいわけです。

『ずばり、月川はもっともっとコンテ主義でいいんじゃないだろうか。きみにはその才能こそがあるのだから。そしてそれは現代日本映画が求めている力でもあると思う』

この<コンテ主義>ということの意味合いを掴みかねて、もう一つ質問をしたところ、僕にもわかる言葉で返ってきた。
長いですが、引用します。

『「こうやったら個性が出るよ」なんて言えるわけがないのだが、学生時の月川作品は、ひとつの構図の中に映っているAとBの関係がずばりと強烈に伝わってくる感じがした。
AとかBとかは俳優の時もあるし、小道具とか風景とかの時もあった。
それは美的な構図というのでもない、まさにドラマチックな構図だったように思う。
別に難しいことではなく、Aという俳優が台詞を言っている画面に絶妙のタイミングでBという俳優がフレームインし、このBがAの台詞を受けた台詞をこれまた絶妙に言い、カメラがふっとパンダウンするとテーブルの上にCという小道具があって、それをAの手が出てさっと取る…といったことだ。
月川はこういうのが本当にうまかった。
とっくに知っていると思うが、上記のようなことを成立させるためには、AもBも勝手な位置で台詞を言うわけにはいかず、また小道具Cも美術担当の判断で何となくリアルな位置に置けばいいというものでもない。
全て監督がコントロールして、A、B、Cとカメラ・ポジションを決め、その中でなら自由に演技をしてもらっても構わない。まあこういうのをコンテ主義と呼んでいる。
さらに重要なのは、カメラマンに上記のようなことをお願いすると、人にもよるが、AもBもCも撮りこぼさないようについ安全策を取って、広角レンズを使うとか手持ちカメラにしてしまう。これが大変まずい。
絶対に標準レンズで、カメラは三脚、場合によってはレールなりミニジブなりの上に乗っていて、最初単独のAを撮っている時は過不足なく(つまりBが入る余地など考えず)Aを狙っているのだが、その構図にふと割り込むようにBが侵入し、ここで構図が崩れそうでぎりぎり均衡を保ちながら(このあたり、特機とフォーカスマンの腕の見せどころ)うまく奥のAと手前のBを切り取り、そこから突然不意をついたように(奥のAが立ち上がるとか、何かのきっかけが必要な時もあるが)キュッとパンダウンしてカメラは小道具Cをとらえ、観客が「なるほど、Cとはこういう物だったのか」とあらかた認識できた絶妙なタイミングでAの手がフレームインしてそれを取る…というのが理想的なカタチだと言えるだろう。
月川はとっくに知ってるよね。
上記のようなことは絶対に面白い。アメリカ映画はだから面白い。韓国映画も頑張っている。そしてほとんどの日本映画は上記のようなことをまったく考慮しないか、いい加減にしかやらないので詰まらない。
僕が言えるのはそれくらいかな。後は「そんなAとBとCの関係があったのか!」と、どれほどの驚きを作れるかが鍵。
そして、時には構図なんか気にせず、全体をざっくりと撮ることが、ABCの関係を表現する上でいちばんの驚きである…というケースもあるのだと知っていればそれでいい。

で、さらに追伸があったとのこと。

「先程、僕はあまりにも原理主義的に書きすぎたかもしれないので、補足しておく。
広角レンズも手持ちカメラも、使いようではOKだ。
ダルデンヌ兄弟などは、手持ちでも実に巧妙に被写体の関係性を描写できている。
また、登場人物たちが激しく動いている場合(格闘とか)、全員がある方向を目指している場合などは、全体をひとつの構図で撮った方が面白いことがよくある。
以上』

なんていう刺激を受ける言葉だろう。こういった言葉をおっしゃっていただけることの幸福。ソクーロフの映画を観たあとだったので、ここに書かれているコンテ主義的映画の考え方というものが、本当に重要だと思えるわけです。もっと学ばねばならない。もっともっと考えねばならない。ああ、それにしても、なんという幸福なことだろう。