東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

南米の人を目印に

■ Yしゃんがこの日記の僕は強気な感じがすると言っていた。そういう感じに思われるのか。でも実際の僕は季節の変わり目には風邪を引いてしまうような弱い男でして、あと最近酒にも弱くなるし、なんだかちょっとしたことで哀しくなるわで、もっといろいろがんばりたいものです。

■ そういえばYしゃんを新宿駅で待っているとき、あまりにも人がいるから何を目印にすればいいか迷っていたら南米風の音楽をする4人組が歌っていたので「新宿駅西口の南米人を目印に」と連絡したら、直後にその4人組はその場を去ってしまった。どうしたものかと思ったら、今度はその近くで若い人達がギターを弾き始めたので「新宿駅西口の若い人達を目印に」と変更した。若い人達はギター片手に2人で演奏していたのだけれども、それは夜の新宿の雑踏の中でなんともいい雰囲気だった。通行量の多い駅前。行きかう人々のそれぞれのちょっとした話し声や足音にギターの音色が入ってくる。それが一つの大きな音楽になる。足を止める人もいれば、そのまま通り過ぎる人もいる。気になってそっちを見る人もいるけれども、約束があるのかそのまま通り過ぎる。そういった風景の全てが何か一つの作品のように見えて、それを遠くから見ていると、なんだか面白かった。これが今の新宿の雑踏の姿だ。若い人達のコンビ名はかすかに聞こえるMCによると「オトフケ」というらしいが、それは僕には懐かしい響きだけれども、ただの偶然なのかもしれないし、聞き間違えだったかもしれない。そうこうしているとその若い人達の路上ライブも終わってしまった。案の定それを目印に歩いていたYしゃんは道に迷ってしまい、会うのにドタバタした。その他にもYしゃんとの話から考えることは多かったのだけれども、それはまた後日。

アキ・カウリスマキ監督の『過去のない男』をレンタルビデオで見る。まったくこれほどの名監督の作品を今まで見ていなかったとは。『群盗、第七章』のオタール・イオセアリーニ監督や『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタ監督といい、世の中にはまだまだ僕が知らないだけでとんでもない映画を撮る人が沢山いる。目線だ。こういう映像を撮る目線が必要だ。沸点ではなく、融点である目線。こういった視線で見ると人間のやっていることは面白くて哀しい。この目線を鍛えなくてはいけない。もっと見る。そんな映画をもっと見るしかないな、これは。

■ ところでタレントの島田紳助の本名が昨今の事件で記事に出ているのだけれども長谷川公彦とは。一文字もかぶっていないな。もちろん芸名に本名と少しでもいいからかぶれといった規則があるわけではないし、島田紳助っていうのはとてもすんなり入ってくる芸名だと思う。ただニュースがあるたびに「島田紳助こと長谷川公彦さんが〜」と記事に載ることに芸名を名乗る人の悲劇を感じずにはいられない。なぜ島田紳助だけではいけないのだろうか。知る権利とかそういった類なのなら、これほどいらないものはない。別にこの事件に関わる人が知っていればいい情報だと思うし。慣例だけで存在する記載方法による報道の悲劇。ただこれに触れるときに感じる妙な切り離され間から生じるものがないことはないけれども。