東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

ハウルの動く城

■ この前見た『ハウルの動く城』について自分が思ったことを書いてみたいと思う。引用が多くなり、所謂ネタバレと言われる文章もあるかもしれませんが、とにかくこれは自分がいずれ役に立つと思ったことの覚書なので、ご了承願いたい。

■ 『ハウル』について思ったことは以下の①ソフィーの呪い、②戦争描写の挿入、③ラストの状況について、なんでハウルの城は飛んだのか、の3つだ。また今回のこの文章は『ユリイカ』(青土社)12月号の特集「宮崎駿スタジオジブリ」の中のドミニク・チェン氏の「動く城の系譜学」を参考にしています。大変興味深い考察が載っていますのでよければそちらもお読みください。

■ 呪いをかけられて90歳のおばあちゃんになってしまったソフィーの声を演じたのは倍賞千恵子さんだが、さすがに映画の冒頭で19歳のソフィーの声を演じている時には違和感があった。少々声が老けている。だけどこれは宮崎駿監督の意図的な狙いがあると思える。ソフィーは家業の帽子屋を長女だからという理由だけで継いで自由の利かない生活をしている。妹がやりたいことをやりなよと言っても言葉を濁すばかりだ。外見は19歳にも関わらずソフィーは夢も希望もないような状態で、無表情で無気力だ。

■ 映画の序盤のソフィーは外見以上に精神的に老けているということを宮崎駿監督は現したかったのではないだろうか。だからこそ19歳の時でもあえて声は倍賞千恵子さんにしたのではないだろうか。呪いをかけられたソフィーは最初、年齢相応な声におさまり、違和感がなくなる。動くたびに腰を痛め、歩くことさえしんどい。ところがハウルと会い、ハウルの城で暮らすようになってからは、活発に動くようになる。90歳とは思えないほどだ。明らかに19歳のときよりも90歳のソフィーは若い。ハウルとの関係が強くなるたびに呪いが弱くなるのか、ソフィーが若返る描写があるが、そうやって若返ってもすでに見る側は倍賞千恵子の声に違和感を持たなくなっている。「魔法」という前提条件を理解しつつも、当初違和感を覚えた声と映像の差は、いつの間にか気にならなくなってくる。CMでも多用されている言葉で、おそらく制作側もメインテーマに使っている言葉、「生きる楽しさ、愛する歓び」はつまりここから来ているのだろう。重要なのは年齢的な老化ではなく精神的な老化だ。どの年齢にも生きる歓びはある。夢中になって生きることで、精神的に老けることはなくなる。ソフィーにとって夢中になる存在であるハウルと関わることで呪いの効果が曖昧になる描写はまさに精神的な若返りの描写だ。

■ 現に、物語のきっかけとして呪いはかけられるが、呪いが解けることはさほど重要ではなくなる。本編でさえ呪いを解く描写はなかった。ソフィーは夢中になれる存在といれるという状況になったから、(白髪だけ残して)19歳の頃と変わらない姿で居続けたにすぎない。それは実生活を反映している。僕達は常に精神的に老ける可能性を持ちながら生きている。そういう意味では常に呪いがかけられている状態なのだ。この映画で重要なのは呪いが解けるといった結果的《事実》ではなく、精神的な老けから脱却するまでの《過程》なのだ。

■ ②について。原作本であるダイアン・ウィン・ジョーンズ作、「魔法使いハウルと火の悪魔」では、映画で頻繁に描かれた戦争のシーンはそれほど重要な場面ではないとされている。原作本を見ていないのではっきりとは言えないが、今回の映画はかなり原作本に忠実であるらしい。だからこそ原作本にさほど描かれていない戦争の描写にこそ宮崎駿監督独自の主観があると思える。そういった観点で戦争のシーンを見てみる。すると面白いことに気付く。戦争のシーン(空襲により街が燃える、戦闘機とハウルの戦闘シーン等)が頻繁に描かれているが、どこの国とどこの国がどういった理由で戦っているのかの描写は実は曖昧だ。唯一の情報はハウルが「国王の指示で」戦場へ向かうということだけだ。そこが観ている僕達にも不完全燃焼になるような所でもあるのかもしれないが、そういったしっくりこない戦争描写こそ現代を反映している。で、『ユリイカ』を引用。

『淡々と進行する戦争、その描写方法は現代において映像とネット情報によって媒介され伝達される戦争と近い感覚をもたらしている。これによって宮崎の視点が戦争や破壊といった旧来の大局的な主題を包摂しつつも、より現実の生活世界へと移行していることを表しているといえないか』

湾岸戦争以降、イラク戦争や各地域の紛争の映像がまったく脈絡もなく、テレビやネットで配信されている。切り取られて提示される映像は意味を失い、ただ漠然とした印象だけを残す。特にアメリカとも違い、日本人は決定的に傍観者だ。まぁ自衛隊はそうではないだろうが、僕達と戦争をつないでいるのは実は映像という情報だけなのだ。不意に訪れた戦争という事実を、意味も分からず垂れ流されて傍観するしかできない観客。それこそがそのまま今の日本人の状況を言及しているような気がする。

■ その上、重要なのは『ハウル』においての絶対の「敵」の不在だ。ソフィーに呪いをかけた荒地の魔女は後半で魔力を抜かれてすっかりおとなしくなるし、ハウルの自由を奪おうとするサリマンも、好戦的なインガリー国王も決して倒されるべき敵としては描かれていない。戦争は確かにある、しかし「敵」がぼやけている。「目的」が失われて、ただ戦争という行為だけが残される。そこに憎悪だけが残って。これも現代の世界状況を的確に表してないだろうか。イラクの混乱、パレスチナ問題、チェチェン紛争、憎悪だけが連鎖して戦いだけが残される。だからこそ人間の業の深さがそこにはある。

■ で、ここまでが①、②についてなのだが、ここまでの話しはすでにある宮崎駿映画でも度々描かれている。「生きる歓び」を得るということは老いとは無関係ながら『千と千尋の神隠し』で描かれているし、明確な敵の不在は『もののけ姫』の人間対もののけの構図にもあった。極端な言い方をするとここまでの作品なら、あえて新しく作る必要も無いと思われる。しかし、それでも新しい映画を作ったということはそれ以上の何かがあるからであり、それこそがラストに描かれていると僕は思う。

■ それに関してソフィーとハウルの人物の描き方がポイントになる。ソフィーは戦争に関して徹底的に無関係な立場を貫く。自分が生まれ育った家や街が燃やされても、そしてそこにはおそらく母や妹がいるはずだがそこには何にも関心を示さない。ただハウルを助けるためにだけ行動する。それは『風の谷のナウシカ』の徹底的に献身的なナウシカとは違う。人間でありながらもののけと共に戦うサンとも違う。一方のハウルは魔法という特殊な能力を持ちながら、戦争に参加することを拒み、自分のためにだけ使うことを望む。人間ともののけの板ばさみになりながら奔走するアシタカとも違う。魔法を体得することで自己を形成しようとするキキとも違う。そんな高尚な精神性などハウルには皆無だ。「ハウルはただ自由でいたいんです!」と叫ぶソフィー。一見するとそれは体制に抗う立派な姿勢だが、よくよく考えると単なるわがままな人なんじゃないかと思えてくる。

■ で、ラストの描写だ。結局ソフィーにより火の悪魔カルシファーとの契約が解消されて心臓を取り戻し生き返ったハウル、弟子のマルクル、よぼよぼの荒地の魔女、スパイだったヒン、自ら行動を共にすることを決めたカルシファー等と共にソフィーはいつの間にか空を飛ぶ機能を兼ね備えた新型の動く城でどこかへ飛び立つ。これは生きるということを知ったと同時に現実世界へ戻ることを余儀なくされた『千と千尋』の千尋とも、自分達の運命を受け入れるということで生き続けることを決める『ナウシカ』や『もののけ姫』の生き方とも違う。二人でシータの生まれ故郷へ向かう『ラピュタ』のエンディングと被るように思われるが、物語が完結した『ラピュタ』と違い『ハウル』はむしろこれから物語が始まる予感を与える。パズーとシータが二人で命がけで潜り抜けた物語の存在があった『ラピュタ』に対して『ハウル』の場合、ハウルとソフィーはほぼ別々に行動し、絆が生まれたのがラスト近くになってからなのを見ても、この物語はまだ始まりであると言えるのではないだろうか。現実から逃避し、運命から逃れる。そういった意味では一人でいることを望み、他者との関係を絶つことを選んだ『紅の豚』(ラストでポルコ・ロッソとジーナの復縁がナレーションによってほのめかされてはいるが)に最も近いのではないだろうか。では当時、宮崎駿をして「作ってはいけないモラトリアム映画だった」と言わせた『紅の豚』と『ハウル』の違いはなんなのか。

■ それこそ『群れ』の形成だ。『ハウル』のラスト、そこにハウルとソフィーが二人きりではなく、さらなる他者がいたことこそが重要なのだ。で、引用。

『そうして物語は、どこにも帰属し得ないものたちがお互いに帰属しあうためのネットワークを創出して幕を閉じる。』

つまりここに擬似家族のような共同体が形成されたことが重要になるのだ。ではこの共同体は今までの共同体とどこが似て非なるところなのか。

■ ここで『現代思想』(青土社)12月号の高祖岩三郎氏の文章を引用したい。高祖氏の文章は9・11で失われた「20世紀の首都としてのニューヨーク」の街を21世紀の今、新たな世界民衆都市として再構築しようとする氏の試みをまとめたものだが、今までの世界の中心として機能してきた都市とはまた違う新しい都市を構築できる可能性をニューヨークが秘めていると提示したのは、他の都市に類を見ない「雑多な民衆」の存在によるものだった。

■ 多国籍な人種の人々が平等に許容されるニューヨークという都市。その民衆が今とは別の共同体を作り上げることで新たな世界都市が誕生するとするものだが、そこで高祖氏が掲げた新しい共同体が「群れ」という概念である。で、引用。

『「群れ」は「群集」のように、一定の原理によって統合された、一方向に向かう大勢の人々の集合ではない。「群集」はそのまま国民国家に所属したり、あるいは一階級を構成することもあるだろう。それは大きな組織化に向かう「分子化」運動に照応する。それに対して「群れ」は、「群集」と常に矛盾し対立するものではなく、それを構成する部分となる時と場所もありうるが、まったく別の原理によって形成されている。それはあくまでも適度に少数のグループで、優柔不断、機動力に長け、現代都市のさまざまな行動に適任である。しかしどこか不安定で、頼りなく、またいかがわしさを臭わせている。その集合性がそのまま大工場に雇われたり、大会社の社員に成ったり、軍隊に徴用されたりすることはない。このカテゴリーこそが、もろもろの移民社会とその集合性のある次元に近いと思われる。「群れ」概念は、我々が想定する雑多な民衆が持つ公共性を見事に捉えている。(中略)それは「分子化」運動に対する「原子化」運動に対応するだろう』

どうだろう。途中の「群れ」の説明など、ハウル達が作り出した共同体のことを見事に言い当ててないだろうか。

■ で、この「群れ」共同体のメリットを以下のように述べる。

『群れにも群集にも一様性は存在せず、またどちらにも階層性が存在する。しかしそれらは同じものではない。群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負をかける、つまり彼らは一手打つたびに全てを新たに賭け直さねばならないのだ。』

『群れにおいて「個人」の役割は刻々と変化するだろうし、ニックネームで呼ばれても構わない。あるいは自分で好きな名前を勝手に作ってしまう。「群れ」のなかで、人はより生々しく個人に生成する。(中略)仕事や身分や財産というよりも、身体や情動を含む自分にまつわる全てが生産であり表現なのだ。』

『「群集」というのは、あくまで我々が「開発」の時空間の中で、その巨大な力に脅威を感じつつも、それに従って生活の糧を稼ぎ出世に邁進する時の集合であり、「群れ」とはそこから出来るだけ離れて、自己と出会い直し、身体と情動の全体を以ってこの巷の微細な時空間と同一化する時の集合である』

これと同じ文脈は「ユリイカ」にも見ることが出来る。

『「帰属しないこと」の倫理、それは同時に接続しない権利、そしてスタンドアローンで居続けるための技能=力を志向するための実践的な原理足りえるのだろうか。それは、より精確には、「どこにも帰属せず、かつ、同時に他者と帰属しあうこと」というような定言命法的な格律、言い換えれば決定的な「帰属」(場所)という体制から、より不確定な状況としての流動的な「接続」(群)への移項が要請されているに他ならない』


■ 新たな共同体の提案。これこそが宮崎駿監督が最も言いたかったことではなかろうか。だからこそこの映画は2004年の今にこそ上映されるべきで、今この時代だからこそ作られたのではないか。

■ ただ、である。実はこのエンディングはずいぶん身勝手だ。なぜなら今の世界は自分勝手に生きれないくらい、複雑な構造になってしまっているからだ。日本に関して言えば、食料自給率は年々低下し、他の国との貿易がなくなってしまっては生活の維持も危うい。なんだかんだいいながらアメリカや中国との関係は保つ必要がある。個人で考えても、大半の人たちは紙幣を稼ぐことはできても、食料も、衣服も、住まいも自分ひとりの力で維持していくことはいささか至難の技だ。理想的な共同体であっても、現時点ではまだまだ夢物語だ。だからこそ宮崎駿はこの共同体に空を飛ばせた。城が空を飛ぶという不可能を敢えて描写する。今はまだ夢物語だが、だからこそ憧れる。空を飛べるような途方もない夢=理想的な共同体の形成。(あくまで現時点ではあるが)究極の理想を、宮崎駿監督の最上級のファンタジーの描写で描いた。

■ 長々と書いたり、引用したけど、これほどの情報をエンターテイメントとして作り上げる手腕は本当にすごいのだと思う。きっとまぁそういうことを抜きにして、なおも夢中になれる何かが宮崎駿映画にはあるのかもしれないのだろうし。なんにしても刺激を受けました。最初にも書きましたが、この文章は『ユリイカ』や『現代思想』から刺激を受けて書いたものです。本当に面白いので、そちらも是非お読みください。