東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『改めて群れについて』

風邪が治りそうで治らず。朝起きるとだいたい喉が痛い。娘子は鼻水をズルズルと出しているのだけど、元気で起きたらすぐに動き回る。嫁氏が一番深刻。


やっとこさfacebookに入ってみる。トップ画面でいきなり『登録せよ』と指示されたので従うままに登録し、誘ってくれた先輩にたどり着くが、その脇で『友達かも?』といろいろな人を紹介されていく。僕が登録したメールアドレスやプロフィールを元にして、あの手この手を駆使して送ってくるんだろうけど、なぜこの人をと驚くばかりに知り合いを探り当てることもあれば、誰なんだこれはという人を『友達かも?』と提案してきもする。今のところ、いまいちfacebookを理解しないまま、とりあえず登録。


かげわたりの家常さんと電話。心配事があって電話をし、いろいろ話しをしていると『ワンピース』の話に。僕が面白いと薦めたから漫画喫茶で読んでいるのだという。互いに思った事を話してみたり。

個人的に、『ワンピース』がそれまでの少年漫画と異なる印象を受けるのは、その行動の軸が、すべて主人公を中心した仲間=『群れ』というごく少数の共同体を守るためのものであること。その行動動機に後付けあれて、『正義』/『悪』という二項対立は出現してくる。ここが従来の『正義のヒーロー』漫画と決定的に違う。この日記でも、幾度となく引用している『現代思想』2004年12月号に掲載されている高祖岩三郎氏の『群れ』についての文章。

『「群れ」は「群集」のように、一定の原理によって統合された、一方向に向かう大勢の人々の集合ではない。「群集」はそのまま国民国家に 所属したり、あるいは一階級を構成することもあるだろう。それは大きな組織化に向かう「分子化」運動に照応する。それに対して「群れ」は、「群集」と常に 矛盾し対立するものではなく、それを構成する部分となる時と場所もありうるが、まったく別の原理によって形成されている。それはあくまでも適度に少数のグ ループで、優柔不断、機動力に長け、現代都市のさまざまな行動に適任である。しかしどこか不安定で、頼りなく、またいかがわしさを臭わせている。その集合 性がそのまま大工場に雇われたり、大会社の社員に成ったり、軍隊に徴用されたりすることはない。このカテゴリーこそが、もろもろの移民社会とその集合性のある次元に近いと思われる。「群れ」概念は、我々が想定する雑多な民衆が持つ公共性を見事に捉えている。(中略)それは「分子化」運動に対する「原子化」運動に対応するだろう』
『「群集」というのは、あくまで我々が「開発」の時空間の中で、その巨大な力に脅威を感じつつも、それに従って生活の糧を稼ぎ出世に邁進する 時の集合であり、「群れ」とはそこから出来るだけ離れて、自己と出会い直し、身体と情動の全体を以ってこの巷の微細な時空間と同一化する時の集合である』

だからこそ、彼らは時に敵対していた登場人物たちとも、目的さえ一緒であれば一時のチームを組む。だが、それもあくまで一時。彼らが信じるのは、『群れ』の中にいる仲間だけ。かといってその『群れ』は重い門で閉ざされてはいない。壮快なほど風通しよく、時に他者を受け入れる。ただ、『群れ』にある信念はブレがなく揺るぎがない。『ワンピース』は、強固な一つの信念を軸に、徹底して『群れ』を描いている。だから、『ワンピース』では、必殺技で『元気玉』は絶対にありえない。どこかの見知らぬ他者の力(ゲンキ)は彼らにとって、立ちはだかる敵に対抗しうるものにはなり得ない。



会社から帰る道すがら、四ッ谷駅付近で不思議な感じになる。その原因は、それまで節電の為消えていた街灯が灯っているための明るさに因る。やけに明るく感じた。



たまたま見つけたもの。何か肝心な事がこの下に書かれているような気もするが、貼るスペースの問題というものは、ある。