東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『靖国のある土地/僕の修業』

■ 気がついたら、はてなダイアリーのブログがカラフルになっていた。とても見やすい。これまでまったく外部の方を意識していない、白黒の文章のみだったこのブログ。責任はどうしたって僕にある。なにせ、このブログの更新にまったく関わっていない。未だにどうやってブログを作るのかすら、分からない。本来ならば誰でもホームページが作れるという触れ込みのブログなんだから、自分で工夫して、自分なりのブログを作ることができるはずなのに、僕はそういうことを一切やっていなかった。ただ単にBBSにやたらと長い文章を打ち込んでいるだけだ。まぁ自分のパソコンを持っていないからと言い訳をしてみるけれども、それにしたってだ。

■ A管理人はいろいろやってくれるのだろうか。それは是非お願いしたい。いやあ、こういうのって簡単にできるのかな。人任せだとついつい無責任にお願いしたくなっちゃうね。たまに、ものすごい数の引用をしても怒らないかな。

■ 今日の昼間に九段下へ行く。4月の芝居のチラシ案をOさんから受け取る。明日、それを僕が印刷所へ持っていくことになっている。チラシが印刷される。つまり情宣の本格的な始動だ。

■ せっかくなので飯田橋から九段下まで歩く。目白通りを歩く。そういう大通りは車が通りやすいように平坦な道になっているが、一歩路地へ入ると坂道が多い。目白通りを少し歩くと靖国通りにぶつかる。九段下交差点から新宿方面へ目を向けると突如急な坂になっており、その坂の上に靖国神社や武道館がある。

■ 坂は異界との境界線。坂の下に位置する九段下交差点から靖国通りを歩いて坂の上に上る。それまでビルに囲まれて陽が当らず寒かったのに、突如開けて日光に当る。暖かくなる。大袈裟に言うと、本当に風景が変わる。そしてそこには靖国神社

前回の日記にも書いたけれども、今、坪内祐三さんの『靖国』(新潮文庫)を読んでいるので、僕は靖国神社に夢中だ。本を読んで初めて知ったのだけれども、靖国神社の歴史は意外と浅い。そもそも靖国神社が作られたのは明治時代に入ってからだ。幕末、維新のために、命を落とした志士達の霊を弔慰する目的で大村益次郎の提案によって作られた招魂墳墓が起源だ。驚いた。そんなに新しかったのか。著者である坪内祐三さんが極端な例えとして「一種の新興宗教である」とまで言っているのも分かる。

■ そんな、まだある意味新しい存在が、それでも様々な尾ひれを付けて語られるのは、その後の太平洋戦争A級戦犯者たちを祭っているというものではあるが、ならばやはりなぜ彼らを靖国神社に祭ったのか。そこに靖国神社が建っている土地が持つ力があるのではないのだろうか。長くなるけど本文を引用。

江戸時代(17世紀半ば)には、東京の西北に位置する台地に武家屋敷が並び、東南の低地には多くの町民が住んでいた。この明確な住み分けが山の手・下町の二分割だった。この境界をもっともリアリティーをもって体感出来るのは、靖国通りを、神田須田町方向から神保町を抜け、九段坂下に至り、九段坂を見上げた時である。九段坂下から飯田橋方向に向かう目白通りは、かつての山の手と下町の境界線でもある。つまり靖国神社は、山の手・下町の境界の山の手側にある高台の上から下町を睥睨しているのだ。

江戸時代、士農工商という制度的な区別が存在した。それはそのまま住み分けとしても成り立っていた。ところが、明治に入り、四民平等になる。制度的な区別が崩れる。それと同時に住み分けも崩れる。かつての町民達も山の手へ移動する。そんな矢先に、住み分けの境界でもあった土地に靖国神社が建てられる。これはつまり目に見える存在を建てることで、新たな目に見えない何らかの境界の設置を意図しているのではないのか。大村益次郎は墳墓としての招魂場を断固としてこの土地に作ることを提案した。他にも上野などが候補地にあがったらしいが、大村は譲らなかったという。そこまでしてでも、この土地にこの建物を建てたかったのには、少なからぬ意図があったはずなのだ。靖国神社のとなりには北の丸公園が存在し、その向こうには皇居がある。江戸の将軍に代わる、時の支配者としての天皇の住みかだ。靖国神社は皇居を見守るように存在しているの。興味は尽きない。

■ チラシ案を受け取ったあと、お台場へ移動。友人Oに完成した台本を渡すため。遅めの昼飯を食べながら、Oといろいろ話す。Oが所属している劇団が6月あたりにがんばって大掛かりなイベントをするとのこと。彼らには彼らの目指す先が確固として存在しており、そこにたどり着く為に、それこそがむしゃらにがんばっている。自分達が思う面白さを追求している。それは僕がやりたいこととは少し違うけれども、それはそれで彼らの行動に刺激を受ける。僕はどうしたいのか。

■ ついでに携帯販売ショップでバイトをしているOに携帯のことをいろいろ聞く。というのも、僕の携帯がいよいよガタがきたから。正直、かなり古い機種だ。バッテリーの減りがすこぶる早い。買い換えようかと思っていた。なんでも店員割引というのをきかせてくれるらしく、普通に買うより安く売ってくれるとのこと。ありがてえ。まぁ、そうは言っても動画ができるとか、最新とかにこだわるつもりはない。それでもせめて写メールはついていて欲しいが。そんなことをOに言ったら「今の携帯では写メールが無い方が少ない」と言っていた。なるほど。俺は機械関係は何もかも遅れている。

■ 昨夜、ある方からメールをもらった。そのメールは僕にとってとてもうれしいメールだった。そして考えなくてならないメールだった。演劇に対する僕の考え方が変わったのは宮沢章夫さんのネットの日記「富士日記」や「トーキョー・ボディ*1を見てからだ。それまではなんとなくだけで面白さだけを追求していた。そんな曖昧な価値観を根底からひっくり返してくれる刺激的なものだった。

■ その後、宮沢章夫さんの本を数多く読んだ。著作である「牛乳の作法」(筑摩書房)の中に宮沢章夫さんが考える役者の存在や舞台に立つことについて書かれている文章がある。出版されているからずいぶん経つから、その後、その考え方に変化が生まれたのかもしれないけれども、僕はその役者論に強く共感する。

■ 共感はするが、それが自分の中できちんと消化されているかは分からない。そしてそれが自分の考え方や演出や作品に昇華されているかも分からない。言葉遊びみたいになってしまったが、まだきっとその程度だ。言葉だけは理解できたとしても、それをきちんとした形にできるかはわからない。僕はまだ修業中だ。それはずっと続く長い修業だ。

■ 例えば、僕が芝居を作るとき、そういったことを僕なりにきちんと消化できているのだろうか。中途半端な気持ちで芝居を作っては、何より参加してくれる役者達に申し訳ない。僕は僕が納得いく戯曲を書いて、一緒にやってきた役者の方とまた芝居を一緒にやりたいと思っている。その時に役者たちと向き合う際に、少なくとも僕は僕なりに確固たる考え方を持っていたい。それを演出でぶつけたい。そのために今は考え続ける。役者たちと対等にぶつかれるように。僕なりに真摯にぶつかれるように。

■ 少しずつ前へ進む。いつか必ず自分が納得のいく芝居を作るために。もし、その考えに共感してくれて、一緒に何かをやってくれるという人がいたとしたら、それはうれしいことだ。本当にうれしいことだ。

牛乳の作法

牛乳の作法

*1:現在は富士日記2