東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『僕が思う資本主義』

■ 5月になった。相変わらず世間はG.W。僕は明日と明後日は仕事。今朝はさすがに電車が空いていた。

■ 金沢に長期出張中の兄が戻ってきたので、久しぶりに家族4人が集合した。とはいってもまぁ正月にも会っているのでそれほどご無沙汰な気分にもならない。しかしまぁお互いに元気にしているのでよかった。29日(金)に兄の希望で大宮のワーナーマイカルシネマズ『真夜中の弥次さん喜多さん』を観にいく。宮藤官九郎監督作品。こってりとした笑いが満載ながら、生死のこととかがテーマでいろいろディープだった。それにしてもちょい役で出ているいろいろな方々はどういった感じの契約形態なのだろうかとどうでもいいことを考えてしまう。○○初監督作品というものにはこういった友情出演的なものが多いな。つながりとかあるんだろうけど。まぁせっかくの初監督だしできることは手伝おうとかいうことなのかもしれないし、こういうことはお互い楽しくていいのかもしれない。この映画ではないんだけど一つものすごく残念な特別出演がある。竹中直人監督作品『東京日和』だ。この映画の後半に、主演の竹中直人中山美穂が演じる夫婦が九州の柳川に旅行に行くシーンがあるのだけれどもそこの1シーンにこの映画の原作者荒木経惟さんが出ていて、僕はこの登場のさせ方がどうも好きになれない。この映画はとても好きなんだけど、どうしてもこの場面でふっと意識が切れてしまう。まぁこれも個人的なものなのかもしれないけれども。

■ 29日(土)は久しぶりに家族4人で出かけた。それもカラオケとか卓球とかビリヤードとかをやった。家族4人でカラオケに行くことなんて今までなかった。ましてやビリヤードや卓球などは一度もない。まぁこういったことも新鮮で楽しかった。親父は意外とビリヤードがうまかった。兄は何気に卓球でピンポン玉に回転を掛けていた。母が歌った『アカシアの雨がやむとき』はとてもいい曲だった。楽しい時間を過ごした。

■ ここ数日の報道番組は福知山線脱線事故の話題ばかりだ。正直、僕はそういう番組を見てなんだかイライラしている。それらの報道番組で神妙な顔して「真実を徹底追究します」とか言っているキャスターたちは自分が正義の使者の代弁者だとでも思っているのだろうか。別にそういった報道を否定するとかではない。事実の検証、大いに結構。ただなんだかよく分からないが、イライラしてくる。極論で言って「事故」は無くならない。限りなく0に近づけることは出来るかもしれないけれども、それでも「事故」はなくならない。過失があったのかとか本当にどうしよもなかったのだとか、そういった事故原因の差異は確かに重要なのかもしれない。しかしそういったことの追求を「事故」が起きるたびに繰り返して、神妙顔して「真実を追究します」ということを言い続けることが事故が起きるたびに同じように繰り返されることにいろいろイライラしてくる。

■ 「24時間コンビニを営業することで得をするんですか?」と僕は自分がバイトをしていたコンビニの店長に聞いたことがある。店長は答えた。

「得はない。むしろ利益だけを考えるならば深夜0時に店を閉めてまた朝に店を開ける方がいい。」

もちろんそれはお店の立っている場所やニーズで変わることだ。深夜の方が日中よりもお客さんが来るコンビニだってあるだろうし、24時間、どの時間も均等にお客さんが入るコンビニもあるかもしれない。あくまで僕が働いていたコンビニに限っただけのことかもしれないが。そう言った後に店長はこう続けた。

「だけどね、他のコンビニが24時間空いていて、うちが深夜開いてないとね、うちのコンビニは不便な店だというイメージが着いちゃって、日中のお客さんも他のコンビニに取られちゃうんだよ。」

つまり、その時に目に見える利益は得られなくても、違う時間(それは日中)に、違うイメージ(このお店は24時間、きちんといつも開いていて便利なお店とか)でお客さんを呼ぶことに繋がるということだ。

■ 資本主義は結構行き着くところまで行っている。まぁ実はまだそうでもないのかもしれないが、僕の拙い知識や感想ではかなり行き着くところまで行っている。物理的な時間として24時間を越えるサービスは今後できない。その他に例えば、家電製品にしても携帯電話やパソコンを例外にしたら戦後間もない頃からまったくの新しい発明などはない。携帯電話ですら毎度毎度新機種が発売になるが機能としての「電話」に変化があるわけではなく、新しい機能を付け加える(メール、カメラ、テレビ等)ことで更新されているに過ぎない。で、しかし、それでも資本主義の世界は右肩上がりに利益が伸びるようにならないと気がすまない経済なので、さらなる分野を探してお金を生む何かを探す。で、それが「信頼」や「ゆとり」、「やすらぎ」などになってくる。目に見えないそういったもののために何かをやるのは厄介なことだ。

JR西日本が過密ダイヤにしていたのも、他社との競争があるわけだが、突き詰めればお客さんの目に見えない「ニーズ」に答えるためのものだ。「事故」さえ起きなければ、過密ダイヤに対しての不満はJR西日本に働く従業員にあるくらいで、一般の僕達には正直関係ないこととなる。むしろ平気な顔してもっと「電車、もっと増えないかな」とか「終電がもっと遅くまで走らないかな」とか思ったりする。そういった意味で僕もJRを使っている人も、JRを使ってなくても今までそういったことに疑問の声をあげてなかった人、だからだいたい全ての日本人はJR西日本の過密ダイヤの責任があるわけだ。利益重視っていうのはつまり利益を生み出す需要側、つまり僕達の要望があるからなわけだから。

■ この意見が、まったく事故と関係ない他者である僕の立場だから言えるのだという意見があるならば、正直まったくその通りなのかもしれない。でも、僕はこう思う。タラレバにしかならないが、仮に僕がこういった事故に直面して死んだり、大切な人を亡くしたとしても僕はこの意見を持っているつもりだ。それを背負う覚悟はある。

■ だからJR西日本を責めるなら、従業員が安全を重視して運転に専念できる本数にダイヤを改正したとして、その減った電車数でも「我慢」して付き合う需要側の意識がないと成り立たない。さらにいうなら競合している他社もそれにあわせてバランスを取って本数を減らす。電車を使い通勤・通学する人がそのダイヤに合わせて通勤する時間をずらす。供給側は「利益」が減る。需要側が「不便」を受け入れる。こういった覚悟をもって初めてJR西日本を責めるべきだ。つまりそれは現在の日本に資本主義経済の流れに変化を加える覚悟だ。今の報道番組はそういった意識が少ないように思える。で、僕も含めた大多数の人もそういう覚悟を持ちきれずに、生きている気がする。

毎日新聞4月28日に掲載されていた坂本龍一さんのインタビューはそういった大きな視点での世界的な経済改革を意識して語られている気がする。僕達は自分でできないことをお金を払って出来る人にやってもらっている。おいしい物を食べたけりゃ話題になっているお店に行ってみたりしている。遠くへ行きたければ飛行機や電車に乗る。車を買う。僕は、自分の力では車も作れない。料理は出来ても美味しいものは作れない。それ以前に、米も野菜も肉もお金と交換でないと手に出来ない。「便利」を金で買っている。「便利」は勝手に蔓延してくれる。それはその「便利」をアピールしてお金を生むことを目指す人がいるから。「便利」は便利だ。だけど「便利」を産み出しているのは所詮人間で、人間のやることはいろんなことが起こってしまう。それの一つが「事故」なのだろうし、「犯罪」なのだろうし「戦争」なのだろう。

『僕は常々、コミュニティー単位で自足した分散ネットワーク社会というものを考えます。多様性ある自然に囲まれ、食べものをすぐ近くから持ってこられる社会が理想ではないかと思います。』

坂本さんが言うこの言葉は今の経済社会に生きる供給側というよりはむしろ受容する側、つまり僕達に「覚悟」を持てと言っているように思える。

■ で、この意見は以前僕が引用させてもらった「群れ」の思想に似ている。それを用いて及ばずながら「ハウルの動く城」を考察した文章があるが、それの後半部分に参考になりそうな雑文があるので宜しければ参照してください。2004年12月22日の日記。僕はこの坂本さんの意見に賛成する。

■ ただ、じゃあ極論を言って資本主義を捨てて縄文時代のような生活をしろというわけではない。そんなに簡単に「便利」は捨てれないし、せっかくある「便利」をみすみす使わないのももったいない。もっと理想的な資本主義があるんだと思う。

■ 僕はそれの一端を演劇の形態にみる。演劇はお金にならない分野だ。どうやらこれはゆるぎない。もちろんこの分野でお金を稼いでいる方もいるので一概には言いきれないかも知れないけれども、右肩上がりに利益が伸びていくといった産業ではない。ただお金にならない分、自分がやりたいことをやりたい形で作ることが可能だ。お客が増えることに越したことはないけれども、観客動員が第一にならず、自分が「やりたいこと」を第一にして考えることができる。まぁその分、利益にはならないけれども。もちろん芝居だけではなく、ミュージシャンにも映画監督にもそういうことを第一に作品を作られている方がいる。僕が見たいと思っている芝居や映画は「利益」や「便利」とは違う「満足」を僕にくれる。お金を引き換えに自分が「満足」できる「作品」に触れることができることは本当に幸いだ。

■ 結局のところ、供給者側の「満足」が産み出したものが需要者側の「満足」と一致したときに金銭によりその産物を提供されることが理想的なシステムなのだと思う。そうであれば「信頼」や「責任」は当然伴うもので、それがこのような問題になることはおそらくない。ある場合はもうその供給者から何も買わなければいい。逆だっていい。自分が気に入らない人に供給する事を拒んだっていい。それは対等で割りきった関係の上に成り立つシステムだ。お互いが常に真剣勝負で理解しあえる間柄。ちょっと極端なことを言えばそれはそういうことなのではないのだろうか。そういう一端は演劇ではよく見ることが出来る。でも考えてみればブログというのもそれに近い。僕は自分の意見を正直に述べる。同意も否定もなく、まったく受け入れられない人はここを見なければいい。僕とこのブログをみている方は対等だ。きっとこの関係は僕が望む理想的な関係に近い。そしてこの関係はコンピューターという最新技術があるから成り立っている。縄文時代ではできない。イマ、この時代だからできる理想的な社会は確実に存在する。そんなに難しいことではないし、ある面ではすでに存在している。ただ大きなシステムの影でなかなか気付きにくいものなのかもしれない。それは今あるような報道番組が訴えていることばかりでは見つけにくいものである気がする。これが現時点で僕が思うこの事件やいろいろなことから考えている資本主義だ。