東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ピュシスとロゴス』

13日、14日、いずれもとても暑く、室内で仕事をしているからあまり意識できなかったけど、昼休憩にコンビニに出かけたときに、少し外に出ただけなのにクラクラとする感覚に襲われる。暑い。

 

なんとなく耳に入った、「チェンソーマン」という漫画をkindleで読んでいる。主要な登場人物が容赦なく死んでしまう展開なのに、露悪的な印象を受けないのは、死が等価でドライに描かれているからのように思う。あっけなく命が終わることに関して、主要キャストも悪役も、そして端役も同等。どこかに少年誌的な物語がやがて来るのかとも想像しつつも、なんというか不謹慎ながらもそういった描写に後ろめたいながらもカタルシスも感じている。ということでサクサクと最新刊まだ読破。うーん、いかんです、kindle。便利だ。これまで避けてきたのに、知ってしまうとやはり便利。

 

たまたまテレビをつけていた時、NHK-BS1スペシャル「コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗」が放送されて、題材として漫画版「風の谷のナウシカ」を取り上げつつ、しかもナレーションが島本須美さんということもあり、興味がありその場で録画をしていた。それを観ていろいろと刺激を受ける。

 

コロナを、ロゴス(言葉と論理)と、ピュシス(自然)という考え方で捉えなおす。人はピュシスの存在でありながら、唯一、そのピュシスから抜け出し、ロゴスを持った生物。しかし、基本的にはピュシスの存在である。「ステイホーム」や「三密」というロゴスから生じた考えにより、ピュシスとしての生き方に制限をされることが人にとって戸惑いとして受け取られるのは人がピュシスの存在であるからである。まぁ、ロゴスとしての言葉、考え方として「ステイホーム」や「三密」がふさわしいかと言えば、うわべだけの言葉で目先の問題をやり過ごそうとしている政治家の言葉ではあると思うけれども。一例としてとても分かりやすい。

 

コロナとどう向き合うか。同種間を遺伝子が次世代へ直線的に受け継いでいくことに対して、ウィルスは自らを媒介として他種間を簡単に移動し、あっという間に全世界規模に拡散した。コロナは、ロゴスですべてを制御できると考えていた人間に向けた、ピュシスからのカウンターではないかと語る。もちろん、ロゴスとピュシスの二項対立がすべてではない。ナチスドイツがある点では優れた自然主義を持ちつつも、アーリア人以外の人種を排斥しようとした偏った清潔主義を貫こうとしたことは、人間の本質であり、コロナを排斥しようとする、コロナに勝とうとする行為もまたそういった人間の本質ではあるが、それが果たして正しいかと疑問を呈する。人も基本的には汚れた存在であり、何かを食べて、排せつ物を出す生き物でしかない。例えば食べ物。生き物を屠殺する工程を排除して何かを獲ることはできない。が、科学の進歩で、今、そういった工程を飛ばせる培養肉の開発が進んでいる。それは一面では進歩であるのかもしれないけれど、ピュシスの存在である人間が行っていいことであるのか。ウィルスを除去することがすべてか。示唆的だったのは、ナチスドイツの人たちが、自分たちより劣った人種であると判断した人たちを裁く手段に用いたことが、銃やそのほかの処刑の道具ではなく、ガス殺を用いたことだと識者の藤原辰也さんがおっしゃったこと。ガス殺はつまり自分たちを脅かす害敵を滅ぼすための手段であり、農薬や殺虫剤とも共通する。さらに伊藤亜紗さんは自らも吃音をお持ちであり、そういった障害を持つ立場、障害を研究する立場からコロナを読み解く。吃音は自らのピュシスであり、ロゴスで制御しようとしても、身体(=ピュシス)といつもせめぎあいがあると語る。盲目になってしまった方の経験談を語る。目が見えなくなってから、自ら何かを調べようとする前に親切な他者によりあらゆることが説明されてしまうという。つまりいつ何時も、観光バスに乗っているような感じであるという。それが特別な一日であるなら、そういう解説も便利だと思うが、あらゆる場面、あらゆる時分でそれがあると息がつまる。自分で調べたいという願いもある。つまり、障害を持つ人は、つねに健常者側からすると「障害を持っている人」であることを求められるという。もちろん、それは無意識にである。悪気はない。だけど、どこかで親切な行為さえもある種の特別になってしまっている。

 

ロゴスによる考え方は、ピュシスとしての存在の人間にはある意味での制御と緊張を強いる。もちろん、それにより統制はとれるが、一方でだからこそ生じる歪みもある。漫画版『風の谷のナウシカ』の最後は、本来なら救いの道である文明の世界を、ナウシカ自らが否定し、破壊することで終わりを迎える。それは行き過ぎたロゴスの否定・拒否。

 

コロナは収まってほしいと思うし、遅かれ早かれ、きっと人は抗体を見付け、ワクチンを作り、ロゴスによって解決するのだと思う。その際に、ピュシスの存在をきちんと考えることができるか。この前、家常さんと話をした時、今、まずやるべきは、コロナという脅威に対して、きちんと「祈り」をすべきじゃないかという話になった。それはピュシスへの畏怖を敬意する行為だと思う。できないことではない。8月6日にしても9日にしても、15日にしても、3月10日にしても、11日にしても、9月11日しても、人は自らの行為に対してその行為を振り返り、祈ることができる。コロナというピュシスに対しても、祈りは可能だと思う。

 

それにしても暑い。14日夜、渋谷にいたが、夜22時過ぎごろ、お盆のせいか、それともコロナによる自粛のせいか、人の数は普段の週末の夜に比べると少ないように感じた。