東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『電車と日本人のアイデンティティ』

■ なんだか寒い日々だ。今日は風も強かったのでよけい寒く感じた。このまま暖かく晴れた日が少ないまま梅雨に突入してしまったら残念な感じだ。

■ 今更だけど、BBSに日記を書いていて、本や映画のことについて書くときによかれと思って関連サイトのアドレスを貼り付けているのだけれども、はてなの方はともかくBBSの方は明らかに見づらいことになっている。単純なアドレスならまだ問題も少ないがアマゾンから引っ張ってきたもののアドレスの長さたるや。よかれと思ってやっているんだ。その辺をぐっと飲み込んで頂けると本当に有難い。

■ 今日、恵比寿ガーデンシネマにてウェス・アンダーソン監督の『ライフ・アクアティック』を観る。ビル・マーレイってゴーストバスターズのときから雰囲気が変わってない。あの飄々とした感じ。若さが保たれているというよりはむしろ昔から老けていたというか、今の年齢がとてもいい感じに思える。渋さとかずるさとか。黙っていてもなんだか面白いのとかも特権的なものだろうなと思う。それにしても思わず冒険に出たくなっちまう映画だ。行きてぇな、冒険。

■ 5月11日の朝日新聞の夕刊にJR脱線事故に関連する興味深い話が掲載されていた。経済ライター三戸祐子さんによる電車の発着時間に関する文章だ。三戸さんによると、今のような世界でも類を見ないほどの正確さを誇る日本の電車の運行ダイヤは既に大正時代中頃には形作られていたという。それに伴い「降りる人が先で、乗る人が後」というような今では当然のような公共マナーや「10秒で降りて、10秒で乗る」というような移動のテンポも既にこの時代にはできあがっていたそうだ。そしてこれと同じようなことの規模が非常に大きくなって再現されたのが高度経済成長期だったそうだ。で、こうやって作られて鉄道のリズムがそのまま乗客のテンポとなり、いつの間にか日本社会のテンポとなったと三戸さんはいう。

『列車が1、2分遅れたからといって、人生が変わるはずがない。しかし鉄道のこのリズムは日本社会にすでに刷り込まれている。(中略)巨大なシステムに支えられて生きる日本人にとって、もはやアイデンティティの問題になっている。』

リズムだ。電車が1分遅れたからといって完全に会社に遅刻することがないにしてもイライラするのは実際の損害に対してではなくリズムが狂わされたことに対する立ちだ。

■ これと同じようなことを毎度御馴染み『東京スタディーズ』で田中大介さんが語っている。

『今日ではほとんど無意識になされる乗降時の身体のこなし方も、鉄道による通勤が一般化してゆく過程で、歴史的に獲得されていったものだ。』

と語り、

『近代人気質が汽車電車バスから馴致され』

  ていたという。

■ こうなってくるとですよ、やはりJR西日本の企業気質どうのこうのばかりをここぞとばかり追求するだけでは事態の根本的な解決には至らないわけですよ。まぁそれも大事なのかもしんないけど。なにせアイデンティティなわけですから。鶏が先か卵が先かの論争じゃなく、僕たちの中に電車のあのリズムを求めるところがあり、電車のあのリズムが僕たちのリズムを作り、今の日本の社会を生み出しているわけですから。根本的な解決とは社会全体の見直しなくしてありえないと思うわけです。でもって、JR西日本に(運転手等の社員が安全を徹底できる)ゆとりのあるダイヤを求めるということは、日本の社会全体にゆとりを持たせることを考えていかなくてはいけないわけでして、これはどうしたって右肩あがりを追求する資本主義的ではないわけだ。この矛盾。ちなみに今日、気づいたのだけれども山手線は1周まわるのに63分かかる。見事に1時間だ。出来過ぎている。まぁ1周まるまる山手線を周る人はそう多くはないだろうが、山手線がきちんと時刻を刻んでいるわけです。今回の事故と向き合うということは大げさにいうなら現代日本人のアイデンティティを見つめることなのだと思う。

■ 話は変わるけれども、文学界の6月号に映画監督北野武のインタビュー記事が載っている。このインタビューを読むと北野監督の映画へのこだわりが垣間見えてとても面白いのだけれども、内容とは別に気になるのが記事の文体だ。インタビューなので会話調の文章が載っているわけだけど北野監督の言葉がこれでもかというほど丁寧だ。テレビなどを通してビートたけしを知っている日本人にはかなり違和感を覚える。週刊ポストに連載されているビートたけしのコラムは彼の口調を再現しており、「〜だっての」という語尾が使われて、1人称が「おいら」である。それに対してこのインタビューは1人称が「わたし」であり「ですます」調で文章がまとめられている。ここには僕が知っているビートたけしとは異なる姿で北野武が存在している。

■ まぁその一因はこのインタビューがもともとフランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』誌に掲載されていたもので、その記事を今回文学界に転載する際に、一度仏語に訳された記事を再び日本語に訳しなおすという作業を経て掲載されたらしく、その際忠実に仏語を訳したらしい。だから北野監督の口調がかなり丁寧になってるそうだ。それにしてもそういう過程を経ているからこそ受ける奇妙な感じがあるが、しかしどこか手間のかかっている壮大な冗談のように思える。因みにこういった企てをしているのはインタビュアーとして北野監督と対談し、この記事の編集にあたった蓮賓重彦さんだ。

■ 印象に残った監督の言葉がある。北野映画で頻繁に描写される海のシーンに関することだ。北野監督は海の画が好きらしいが、それはあくまで浜辺に佇む画が好きなのだという。海で泳いでいる画は嫌いらしい。人間はいいかわるいかはともかく海にいた生物が進化して海からでて陸地で生きている。そういった点で北野監督にとって海に入るっていう画はどうも人間的ではないそうだ。だからどんなに駄目な人間でも、海に入らずぎりぎりで陸地に、浜辺に立たせるのだという。海には入らない。だからこそ人間的だ。といったことを語っていた。とても丁寧な口調で。

■ またこのインタビューの中でジャン=リュック・ゴダールが北野監督の『HANA−BI』を褒めていたといったくだりがあるのだけれども、それに関わっていそうな文章がこれ。で、このゴダールの記事の中で気になるのがここ。長くなるけど引用。

『この私がよく知らない映画史全体を考えると、いくつか、二つか三つか、数少ない国の映画が存在して、その二、三ヶ国の映画が世界中に影響を与えていました。その他の国では、その国の映画は存在せず、何人かの映画作家がいるだけだったのだと思います。もちろん、映画が作られていなかった、作品が作られていなかったという意味ではありません。その国家として、国として地域として、あるいはその国民としての映画が何なのかという考えが存在しなかったという意味です。ドイツ映画は存在しました。第二次世界大戦後の少しの間、イタリア映画は存在しました。このイタリア映画が存在したというエピソード、なぜイタリアであって、他の国でなかったのかということを、私は作品の中で考察しています。フランス映画も存在しました。ロシア革命の時に、ロシア映画も存在しました。そしてアメリカ映画も存在しました。しかしスウェーデン映画は存在しませんでした。スウェーデン映画作家は存在しました。たとえば、スティルレル、シェーストレーム、ベルイマンといった映画作家は存在したのです。他の多くの国も同様で、映画作家は存在しても、映画は存在しなかったのです。
 日本について言えば、日本もまた、何人かのよい映画作家が存在した国だと思います。溝口、黒澤、小津、成瀬らが存在していました。しかし日本映画は存在しなかったと思います。日本が何だったのか、日本が何になりたいのかを表現する日本映画が存在しなかったと思います。』

これはどういうことなんだろうって読んだときから考えている。でも解らない。なんとも難しい。こうなってくるとゴダールの目に映る今までの日本映画とはどういう映画なのかということだ。この文章の後に北野監督の『HANA−BI』をして普遍的な映画と称しているが、優れた日本映画作家たちの作った映画は全て普遍的な映画だというのだろうか。ではどういった映画が日本映画なのだろう。及ばずながらこういうことも考えていきたいと思う。完全な解答など得られないとしても考えることが重要なんだろう。因みにゴダールの最新作『ノートル・ミュジック』(われらの音楽)は日本では今秋公開だという。楽しみだ。