東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『脳で食事をする』

■ 雨の朝だった。いつもなら雨の中を自転車で駅に向かうのだけど、バスに乗ってしまった。もう自転車は空気を入れてバッチリ走るのだけど、なんとなく挫けた。やはり週の始めで、なんといいますか、月曜の朝一は憂鬱も一入でして、そんな時に雨に濡れて仕事場へ行くっていうのは切なくなる気がしたから。

■ 途中でバスに乗ってきたおじさんは傘を持っていたのにやけにびしょ濡れだった。そして周りを気にせず終始「疲れた」と漏らしていた。それはもうかなりの回数「疲れた」と言っていた。一体このおじさんは何をそんなにびしょ濡れになりながらやっていたのかわからないが、その姿を見て色々勝手に想像することが面白かったりする。

■ タニカワさんも左内正史さんをご存知だったみたいで。というか僕の方が無知なのだろうけれども。『ジョゼと虎と魚たち』のスチールを担当していたというのも知らなかったし。あの映画を観てサントラが聞きたくなり、ケチってレンタルで借りたとき、ジャケットに載っていた写真がいい写真だなと思いながら見ていました。中でもラブホテルの部屋の鍵かなんかが写っていた写真に具体的に何のどれがいいとは説明できないものの、特に惹かれました。タニカワさんのいう光の感じ。それ、確かにありますよ、なんか光がいいです、はい。しかしそれ以上、うまく言葉にできません。

■ 話は変わる。バラエティのテレビを見ていたら、人の食事と脳の関係について紹介している番組があり興味深く見た。人は味覚をどこで感じているのかという話題で、甘いとかしょっぱいとかそういう具体的な味覚はもちろん舌のミライなのだけど、もっと全体的な部分として味覚は脳が支配しているといった話だった。まぁこの説明ではかなり大雑把なんだけど、概要はそんな感じだったと思う。

■ 『5つのシュークリームのうち1つだけ中身がクリームではなく大量のからしです。』というバラエティ定番のシチュエーションが用意されて、ゲストである芸能人たちが1つづつ食べていくコーナーがあり、芸能人たちはからしのシュークリームをびびって匂いをかいだり、恐る恐る端っこを食べたりとしていた。全員が食べ終わってから種明かしがあり、実はどのシュークリームにもからしは入ってなかったのだと発表される。芸能人たちはそれを聞いて初めて安堵の表情を浮かべる。実はこの匂いを嗅いだり端っこを恐る恐る齧るという食べ方は極めて野性の動物的な食べ方なのだという。野生の生物たちは獲物にしても、生えている植物にしても、もしかしたら自分の体に良くない毒のようなものが入っているのではないかと疑いながら食べるという。野生の動物たちはそのような食べ方をしながら食べれるものを経験的に理解して生きていくのだという。『からしが入っているシュークリーム』という『情報』だけで、実際はクリームの入っている美味しいシュークリームをそれでもそのように食べてしまうのは自分の体に害を与える可能性に対して脳が警戒しているから。実際に芸能人たちも最初の一口は味など気にする余裕はなかったといっていた。つまり甘いとかそういう個々の味覚を舌が正確に感知する前に、脳による食への絶対的な支配があるのだという。

■ お袋の味が美味しいと感じるのは、自分を守ってくれるべき存在だと認識している母親が作る食事に安心感を脳が感じているからというのもあるらしい。つまるところ味は獲得された『情報』によって脳に支配されるのだという。そのほかにも重要なことは例えば行列が出来ている店の料理は「うまいのではないか」と感じるのも、テレビや雑誌で紹介された料理をうまいと感じるのもそういう『情報』を事前に知っておくことによって脳が「それはきっとうまいよ」と思っているとのこと。つまり本人が実際に経験していなくても、外部から得た『情報』によっても人は味に対する経験(に似たもの)を得ることが出来るということ。

■ これはちょっと恐れ入りました。これはですよ、人間の利点であり、やはり欠点にもなりかねますよね。つまり「うまいらしい」という情報があれば「うまい」んだと思えるわけで、テレビかなんかで、それはきっと僕らにも馴染みの芸能人によって紹介されるんだろうけど、「その料理がうまいからうまい」というわけではなく、「テレビで放送していたからうまい」という思考が働く可能性もあるということなわけだ。もちろんそうならない人もいるわけで、その人は脳に入ったそういう情報をとりあえずの情報として認識することができて、自らの舌で経験して初めて結論を出せることができるのだと思うが。場合によっては『情報』さえあれば経験と同等の感触を得ることができるわけで、なんというかそれは安易なように思えるわけです。

■ 僕なんかもネットやテレビで上辺だけを知ったつもりになって、ふかく追求せず物事を知った気になってしまうことが多いし、全てを否定する気はないけれど、それはオンライン上の巨大な掲示板の「〜らしいよ」で語られるとても安易な意見だけで全てを知った気になるようなことに似ている。もちろんそういった掲示板には掲示板の特性があるんだろうけれども。どこかの知らない誰かが良いよと言っていたから良いという安易さ。全米ナンバー1だからすごいとか、オリコンチャート一位だからすごいとか、そういう風になっているからすごいんだという考えから如何に遠ざかれるかが必要な気がする。そのものを敢えて疑い、自分で考えてみる。その位置で立つべきなのかなと思う。まぁ全ての事柄にそうやって挑むのはきっと出来ないとは思うんだけど、せめて自分が必要だと思うことぐらいはその立ち位置にいなければいかんかもしれない。学びながら、必要なものを拾っていき、それをさらに考えて、その次へつなげる、まぁそういう感じは理想ですが。

■ なんにしても脳で食べているっていうのは面白い感覚だ。