東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ありのままを見つめる』

■ どうも自堕落な日々を送っている気がする。雨が降ったり、降らなきゃ暑い日々。いよいよ梅雨っぽくなってきた。しかし否応なく自堕落。

■ カバンを整理していたら未使用の図書カード2000円分を発見。いつどんな機会にこの図書カードを手に入れたのかあまりよく覚えていないけれど、どっちにせよ、カバンの中にあるのならこれは間違いなく僕のもの。衝動的に本屋へ。しかし欲しかった本が見つからず。無念。とは言っても読みたい本はいくらでもある。で、2冊購入。

森達也さんの「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔(角川文庫)を購入。森達也さんのドキュメンタリー映画「A」をまだ見ていないんだけれども、これはと思い手に取る。さっそく読んでみる。

和田ラヂオさん『和田ラヂオの嫁に来ないか?』2巻を購入。大好きですな、和田ラヂオ。自由律俳句と漫画を合わせた作品。和田ラヂオさんの絵がもともと好きなんだけど、さらに自由律俳句が加わって生まれる面白さよ。

■ 自由律俳句とは五・七・五の形式にとらわれずに自由に表現する俳句の型のこと。ほとんどの句は和田ラヂオさん自身が書いているのだけど、たまに尾崎放哉さんの句が使われている。自由律俳句の第一人者である尾崎放哉さんの句はなんともいえない味わいがある。どう言葉にしたらいいのか難しいけど、その句に触れるとなんだか心に引っかかるものがあり、そしてそれがなかなか離れない。代表的な句を少しばかり載せてみる。

『すばらしい乳房だ蚊が居る』
『いれものがない両手でうける』
『夕日の中へ力いっぱい馬を追ひかける』

これは一体何を伝えたいんだろうか。特に伝えたいことなんてないのかもしれないが。

『犬よちぎれるほど尾をふってくれる』
『紙が字を吸い取らぬようになった』
『墓のうらに廻る』

この辺になるといよいよなことになっている。一体、この放哉って人は何を考えているのだろうかと思う。だけど、なんだかよくわらないけどいいなぁと思える。

『流る風に押され行き海に出る』
『なんにもない机の引き出しをあけてみる』
『夜中の天井が落ちてこなんだ』
『白々あけて来る生きていた』
『咳をしても一人』

放哉の句は、一つの小さな出来事を描きながら、もっと絶対的な何かを捕らえているように思える。これらの句に何かしらの意味を乗っけることは可能なのかもしれないけれど、おそらくそんなことは無意味なのかもしれない。ただそこにそういう風にしている人がいた。それだけのことだ。そこになんらかの感情、それは寂しさだったり哀しさだったりするのかもしれないけれど、そういうことを思うことは観る側の感じでいろいろ変わる。人によって様々だろうし、同じ人が観て受ける印象なんかも、その時のバイオリズムでずいぶん違うのだと思う。これだと決めてかかれることなど何もない。重要なことはそういった感情の振幅のまさに中心、プラスでもマイナスでもない零の地点を放哉が見据えていることなのではないのだろうか。それはありのままのことをありのままに描くで初めて出現するものであると思う。そういう視線で世界をとらえる姿勢に表現者としての魅力を感じる。

『こんなよい月を一人で見て寝る』

この句はなんだか今日一番ぐっときた。泣きそうになってくる。ちなみにこのページで尾崎放哉さんの詳しい説明や作品が見れます。