東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『必死で考えること』

■ 6月。この前、テレビでタモリが「もう1年も半分が過ぎたのか」と言っていた。まぁ正確にいうとそれは6月が終わってから言うのが妥当なのかもしれないが、しかしカレンダーは残り半分まで来たわけだ。そう考えるとなんだかあっという間に過ぎていったような気がする。1月は芝居の稽古をしていたが、あれからもう結構経っているわけだ。

森達也さんの「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔(角川文庫)読了。一気に読んでしまった。というか、読み出したら止まらなくなってしまった。

■ オウム報道が世間を騒がせていた当時、すでにマスコミによって一方向に形作られていたオウムのイメージを排除して、今一度オウムを見つめなおすドキュメンタリーを作る。そんな立ち位置で、一人でオウムの内部にカメラを持って入り込んだ森達也さんの記録。とても生々しい質感を感じる文章だった。

■ ドキュメンタリーは公正中立の立場で制作されなければならないと、以前の僕は何も考えずに思っていたが森さんはそういう風な姿勢でドキュメンタリーを作ることを否定する。

『一頭の母ライオンがカモシカの子供を狩る場面を撮ったとする。出産直後の母ライオンの子育てにドキュメントの主軸を置くのなら、観る側は彼女の牙がカモシカの頚動脈に食い込んだ瞬間に快哉を叫ぶだろう。カモシカの母と子に主軸を置くのなら、彼らが逃げていった瞬間に安堵の溜息をもらすだろう。そういうものだ。映像で捉えられる事実とは、常に相対的だし座標軸の位置によって猫の目のように変わる。
(中略)
その意味で撮影における客観性など存在しない。映像を作るという作業はすべて主観の産物のはずだ。』

そういう風に語る森さんはドキュメンタリーをこう定義する。

『ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な事象を抽出することだ。』

さらに森さんは別の言葉でこう語っている。

『表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実に誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。』

それはドキュメンタリーに関わらず、すべての創作に関わる人に必要な意識のような気がする。

オウム真理教はその当時から『特異』な存在として決定づけられた。なぜサリンを撒いたのか。どうしてそんな酷いことができたのか。それはオウムだから。麻原だからそういうことを実行に移せるんだ。本来ならば徹底的に考えなければならない犯行動機に関して、とても簡単にそういうふうな結論付けがなされていたように思う。それが日本中で当然のようにまかり通っているようだった。そういった思考はもちろんオウムという集団とその集団が引き起こした事件の異常性に寄るものが多いのだろうけれど、それにしてもずいぶん極端な考え方だ。

■ そこに社会全体の思考停止状態があったと森さんは言っている。マスコミは徹底的に悪の存在としてオウムを報道し続けた。そこに森さんは疑問を感じた。だから全てのオウムに関する既成概念を一度振り払ってオウムを捉えなおそうとした。

■ 確かに森さんの文章にはオウムの広報担当だった荒木浩との和やかな会話のシーンや、オウムを報道するマスコミの横柄な態度を描いているシーンもある。かといってオウムを擁護するとかそういうわけではない。それらはカメラを廻していた森さんの目の前で実際に起こった出来事だったのだ。そしてその事実をありのまま提示しただけだ。そこに一連のマスメディアで報道されるオウムの姿と違和を感じるのならば、それはオウムはこういうものなんだという自分の中で勝手に作り上げた既成概念の視界と、一切の既成概念を排除した森さんの視界との差が現れたということではないか。

■ 映像は主観だ。カメラをカメラマンが廻している時点で、カメラに写った映像は「全てのありのままの出来事」ではなく、カメラマンが「ありのままの出来事の中から意図して選んで写した」映像だ。テレビで放映される際にさらに編集されているのなら、そこにディレクターの意思も介入してくるわけだ。それは既にありのままの事実ではなくある意志によって作られた一個の作品だ。もちろん森さんの映像や文章にしても森さんが目にしてきた事実から森さんの主観で取捨選択された事象だけが選ばれていることを意識しておかねばならない。

■ それでも本を読めば、オウム(殺人や世間を騒がせた事件に関わっておらず、純粋に麻原や教えを信じている信者など)に対するイメージが変わる。だけどだからってオウムは悪くないとか思うわけではないし、その信仰を信じる気にはならない。それでも変わるところはある。オウムに入った信者と僕との差異はそれほど大きなものでないし、決して特異な存在ではなく、すぐそこにいる人たちなのだと思える。オウムだから悪いんだという思考停止状態から僕をすくい上げて、きちんと向かい合わせてくれる場所に立たせてくれる。そういう意識変化を与えてくれる強度を森さんの文章や考え方は持っている。

■ 基本的に人間は自分の好きのものや望んだものしか受けつけないものなんだと思う。だから嫌いな勉強はまったく覚えられないけど好きな雑学はいくらでも身に付く。テレビは欲望を提供してくれる装置だ。僕らが見たいものを与えてくれる。というか、観たいと思うものが、制作者達によって作られて放映される。そうじゃないものは視聴率という査定に引っかかる。匿名の電話で苦情が来る。もちろん制作陣が作りたいと思うものが放送されているケースもあるのだろうけれど、基本的に極力観る側が望むものをテレビは流そうとしている。オウムが悪者だという情報はマスメディアが意図して作ったものだ。だけどそれを望んでいたのは間違いなく観る主体だった僕たちだ。僕たちが悪者として叩かれるオウムを観たいと希望したのだ。だからそういった方向の報道がなされた。(テレビというメディアに関して興味深いのは、観たくないテレビは別に見なくていいはずで、観る側がチャンネルを変えるだけで簡単に済むことなのに、実際には観たくないものやふさわしくないと思われるものは、チャンネルを変えるという選択肢を選ばれずに、先に上げた視聴率や苦情、スポンサーや局の意志、道徳や倫理などの観念など、様々なものが交じり合って生まれた、なんだか無記名な相対的な判断によって排除されていくことになるが、ここに映画や演劇のような観る側が選択してお金を払い観にいくものと決定的な違いがある媒体なんだと思うけど、今回の話題とはまた別の話だと思うので割愛。)

地下鉄サリン事件とオウムの問題は、きっとそれまでの判例では解決できないような、とんでもない事態であったのだと思う。つまり結論が出しにくい。だけどそのままにしておけない。すっきりしない。そんなときにオウムという巨悪を作ってそいつらが特殊で悪い存在だったと決めて事態を終わらせることが簡単だったのではないだろうか。自分の許容範囲を超える事態が出現したとき、極力収まりがいい感じで事態が無難に終わって欲しいと望むことが人間にはあるんではないだろうか。

■ そういった事態はその後頻繁に起こっている。9・11イラク戦争。それの日本人人質事件の自己責任問題。そしてJR西日本脱線事故フセインのせい。警告も聞かずイラクに行った人のせい。JR西日本のとんでもない企業体質のせい。そうやって途方もない事態を至極簡潔な結論で終わらそうとする。それらの出来事はそんな簡単に収まることではないのに。

■ カメラに写された映像のフレームのすぐ隣の写っていない場所を想像する力。マスメディアが報道する内容を理解しつつ、それを疑える、そして別の視点からその物事を見れる力。観る側の立ち位置の僕に問われるのはそこではないか。

■ それはきっと必死に見て、必死に考えるところからしか生まれないんだろうなと思う。だから色々なものを見て、色々なことを学ばなければならないのだと思う。

■ で、きっと必死に考えたうえで気づくことは「わからないということがわかった」ということなんだと思う。

■ それは絶望とかとは違う気がする。「わからない」ということは他者を他者として認識できることなんじゃないか。人類皆兄弟という言葉を僕は否定する。僕と別の誰かは生活のリズムが違う。考え方も違う。信じていることや食べ物の好みも違う。アメリカの偉い人たちはイラクの人たちを自分たちと兄弟だと(兄弟になれると)信じているのではないだろうか。だから自分の正義を押し付けるようなことが出来るのだと思う。それはきっと実はあんまりよくわかってないんじゃないのか。だけど必死で考えた結果「僕と君は違う」ということを理解できたら、そこから全てが始まるのではなかろうか。排他でもない。かといって思考停止でもない。必死で向き合う。そこから何が出現するかはよくわからない。だけどそこからしか物事は始められない気がする。