東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『寂しさとかプロパガンダ』

■ 今日の雨はなんだかとてもしっとりと降っていた。職場の窓ごしに見える風景は灰色を基調とした寂しげな色合いだったけどそれはそれでよかった。


吉見俊哉さんを中心とする東京大学大学院情報学環第一次世界大戦プロパガンダ・ポスターコレクションというホームページを開設した。戦争に当てる資金を募るものや軍隊に参加しようと呼びかけるもの、はたまた国のために戦っている兵隊さんを称えるためのポスターなどをたくさん見ることができる。拡大したサイズで見ることが可能になっていてみごたえがサイトです。こういうポスターがその当時戦争と一般人を結びつけることに重要な役割を果たしていたことは間違いないだろう。戦争とプロパガンダ。それにしてもアメリカのポスターの多いこと。中にはかなり大胆なキャッチコピーを載せているポスターもあり、これ今のあの国の大統領が声に出して言っていることと同じようなキャッチコピーだよと思うものもチラホラある。冗談じゃなく笑えない。戦争はそう遠くないところにあると思えてくる。


つげ義春 『新版 貧困旅行記』(新潮文庫)読了。

観光名所から離れた寂びれた土地を訪れることを好んだつげさん。そういった場所に惹かれる理由を以下のようにまとめている。


『世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには“自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしよもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。』


この後にシュテルナーの『唯一者とその所有』という本の中からの引用で『完全な自己否定は自由以外の何物でもない』という言葉が続く。言葉にならないような場所は人それぞれだと思うけど、旅をしてそういう場所に出会ったとき、よく使われる例えを用いるなら自分の存在なんてちっぽけなものだなぁと思うことがあったりするけど、そうやって自らを一度貶めることで、実は自分という存在から解放される瞬間を味わっていたのかもしれない。ああ、なるほど、だから旅は楽しいのかもしれない。


■ まぁもちろん、そういう旅で得られた非日常の体験を日常の生活の中に少しでも還元できたら、旅をした甲斐があるってもんだけど、つげさんはそのままどんどん暗くなっていくことのほうが多くってそういう文章もまた面白い。なにせこの本に書かれている最初の旅の目的は蒸発だ。とんでもない第一章だ。それにしてもつげ義春さんの文章はどこか寂しげで、なんだかいい。つげ義春さんといえば漫画だけど僕はつげさんの紀行文も大好きだ。こういう本を読むといよいよ旅に行きたくなる。いい季節になってくるし。