東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『旅を感じる風景』

■ 大阪へ行ったとき、時間があったので須磨海岸へ向かった。阪神電車野田駅から電車に揺られた。神戸の三宮あたりまでは乗り降りが結構あったが、そこを越えると徐々にのどかな車内になってきた。平日の午前中。外はいい天気だった。


■ どの駅だったか忘れたけど、快速電車の通過待ちをするために3分ほど停車するという放送が入った。気が付けば、僕が乗っていた車両には僕以外の乗客はいない。隣の車両に目をやるとウトウトしながら座っているサラリーマン風の男が一人だけ。ホームにも人はいない。のんびりとした町並み。静かな時間がそこにあった。と、どこからか子供の声が聞こえてきた。振り返ると線路沿いに幼稚園があり、その幼稚園の敷地で園児たちが「一、二」と掛け声をかけながら体操を始めていた。園児が何人いるのかまでははっきりしなかったのだけど、聞こえてくる掛け声はとても元気で、快晴の空の下、その声はなんだかとても良かった。のどかな町。誰も居ないホーム。静かな車両。子供たちの掛け声。快速電車を待つことで生れた心地よい空間。そこを快速電車が僕の目の前を勢いよく横切っていった。それから電車は何事もなかったかのようにゆっくりとホームから離れていった。


■ 今回大阪へ行って、僕が最も『旅』を感じた瞬間だった。もちろんいろんな人と会うことも旅の楽しさだろうし、有名な観光名所を巡って評判の美味しい食べ物を食べることも旅ならではのものなのだろうけど、それ以上に忘れられない「風景」に出会うことがある。それはなんでもない些細な風景かもしれない。だけどそれを味わうことができるのも「旅」の楽しさのような気がする。


須磨海岸に行きたかったのはアフタヌーンという月刊漫画誌に連載されている木村紺さんの『神戸在住』の影響。その漫画の中で冬の須磨海岸を大学の先輩と主人公の女性が散歩する話があり、僕はその話が大好きで、神戸に行く機会があったら須磨海岸を一度散歩したいと思っていた。生憎、冬ではなく6月の須磨海岸だったけど、所々で海の家の建設がされていて夏の準備をしていたその浜辺は、もうすぐやってくる一番賑やかな季節をいまや遅しと待っているようでもあり、賑やかになる前の最後の静かな時間をゆっくり楽しんでいるようでもあった。


■ 旅の楽しみは人それぞれなのだろう。大阪に行ったときに時間潰しに入った古本屋で購入したつげ義春さんの『新版 つげ義春とぼく』(新潮文庫)はこの大阪旅行の旅のお供になっていたが、自分自身がこうやってフラフラしながらつげ義春さんがフラフラしている旅日記を読むのもまたオツな気分だった。つげ義春さんは漫画でしかしらずエッセイを書いているのを読むのは初めてだったけど、漫画で味わえるつげ義春さんの雰囲気はエッセイでも十分に堪能できた。そしてこの本を読むとつげ義春さんの旅の楽しみ方も味わえる。


■ またどこかをフラフラとしてみたい。旅っていうと大袈裟になってしまうけど、もっと至極単純なことでいい。まさにフラフラでいい。フラフラしていろいろな「風景」に出会えればそれがきっと楽しいことになる。ただし次は日焼けには十分気をつける。腹を出して焼かないように心がける。


■ 今日のこと。昨日から一転、すこぶる晴れたので洗濯と掃除に勤しむ。晴れた日に洗濯しないとどかっと溜まってしまう。掃除は痒みに耐えられずポリポリと掻いた体から剥がれた皮膚どもを綺麗に一掃するためという地味な目的。掃除機で皮一掃。汗をダラダラかきながら掃除機をかける。


■ 午後は図書館へ。昔の文学界に掲載されていたモブノリオさんのインタビュー記事を読み、モブノリオさんの本を読んでみたいと思う。それにしてもモブとは。間違いなくペンネームなのだろうけど、モブだけを取り出すと変な感じになるし、かといってモブさんっていうのもなんだか変。あと茂木健一郎さんの文学界の連載を読んでいたらブログをやっていると書いてあり、早速発見。また日々チェックしたくなるブログが増えた。でもそれも楽しい。


■ あと今更だけど『ハウルの動く城』は全米公開されたものの興行的に苦戦しているとのこと。興行だけでなく米・大手新聞でも評価は低いらしくワシントン・ポスト紙では「エンペラー(皇帝=宮崎監督のこと)は物語を持たない」という見出しで「物語が存在しないし、物語を進めようという意思もない」と苦言を呈するなど厳しい意見も目立っているらしい。


■ 僕が知っている範囲で、すでに『もののけ姫』あたりから宮崎駿監督は事前に物語を作るという方法ではなく、絵コンテを描きながらそれこそ映画を制作しながら物語を作っていくという方法で映画を作っているとなにかで読んだ。つまり当初予定していた結末が映画を作りながら変わっていくこともあるということでしょう。まぁそういう方法がいいのか悪いのかは分からないけど、気になるのは物語がないことが映画の評価を下げることになるのかということ。まぁこの新聞記事を全文読んだわけでもないので詳しくは分からないけれど、いまだに映画は物語によってでしか評価されないのだろうか。ただアメリカ全体でも興行が盛り上がっていないところを見ると、新聞の評価だけでなく、結構アメリカ全体で好みとして好きではないということなのか。


■ これが日米の違いなのか(かといって宮崎映画とあっちゃあ何でもかんでも飛びつく日本人にもいかがなもんかと思うが、しかしそういう自分自身やはり宮崎映画は観てしまうわけですが)、それともそういう括りとはまた別の違いなのか分からないけれど、物語が映画の全てとは僕は思ってはおらず、けれど先ほどのような一文だけが取り上げられるあたり、やはり物語は映画にとって重要な地位を占めてしまうわけで、そこにどうにもこうにも違和感がでてくる。


■ つい先日放送が終わった「エンジン」というテレビドラマがあったけど、あれの最終回を僕は観てました。主人公がレースに参加して勝つのか負けるのかが最終回の焦点だったのだけど、あのドラマはつまるところそうやって「物語」が重視される作品だった。まぁテレビドラマっていうのは性質上11話やそこら話を続けなくてはいけないわけだから、どこかしら物語が重視されるのは当然なのだろうけど。


■ ただ物語が重視される場合、結局その物語は最後に完結される方向に進むことが大半で、観る側はその終わらせ方に賛成するか、反対するかの、大きく言えば2言論でそのドラマを判断することになってしまう。結局そういった作品は物語によって支配されてしまう(少なくとも好みとかで)ことによってひどく安易な形で(たとえば多数決の理論で)受け手に消化されてしまうのではないか。僕にはそうやって作品が消化されることはなんだかもったいない。物語とは別のところ、それは例えば、あるシーンの一瞬の空気感だったり、その作品を包む雰囲気や流れなのかもしれないが、どこかそういうところに僕が惹かれるのは、そういうところにこそ作家性が現れてくるというか、言葉にはならない「何か」があると思えるから。物語が仮になかったとしても、その空気の中に身を委ねる心地よさがあるのなら、僕はそれでも全然いいんじゃないかなと思う。


■ まぁハウルの動く城が「物語がないとかそんなことないよ、面白いって」と擁護するほどの作品だったのかどうなのかは確かに別ですが。


■そんなこんなで夜勤の夜は更けていきます。