東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『「資本論も読む」から思うこと』

宮沢章夫さんの『資本論も読む』(WAVE出版)を読み終わったのだけど、これはなんといいますか、読み終わったけどまだ読み終わってないような感覚がありまして。なにより『資本論』という書物の難解さをまざまざと見せつけられる思いでした。

『諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである』

これは『資本論も読む』に引用された『資本論』の一節だけど、なんですかねこれは、とてつもなく難しい。一個一個の言葉はそれぞれ理解できるはずなのに、それが組み合わさったことでまったく理解できない文章になっておる。なんなんだ、『一般価値形態』って。


■ まぁ、そもそも著者である宮沢さん自身もこの本はそういった解説本の類とは違うものと公言しているわけなので、『資本論も読む』を読んだからといって『資本論』を理解できるわけではないから、『資本論』の難解さにやられて、僕もいつかは『資本論』を読もうと思っているのだけど、こりゃあ、まだまだいろいろな文章を読んで修業していかねばならねぇなぁと、改めて自分の力量のなさにげんなりしたとしても、それはこの本の感想とは関係ないわけでして。


■ 『資本論も読む』の中で、宮沢さんは難解な『資本論』の文章を前にして、そのわからなさをわからないまま味わうかのような読み方をされており、時にそういった状況を楽しんでいるかのようにみえる振る舞いが文章からも読み取れて、そういう本の読み方もあるのかと教えてくれるようでした。先に読んだ『チェーホフを読む』はチェーホフの戯曲を、演出や上演を前提とせずにじっくりと読み解くという試みだったのだけど、『資本論も読む』ではそれとはまた異なる読み方で『資本論』に向かい合っており、この2冊は異なるアプローチから『本の楽しい読み方』を提案しているのだと勝手に解釈して読むと大変面白いと思った。とても楽しく刺激的な読書だ。


■ 『資本論も読む』の中には、『本の楽しい読み方』だけでなく、ときにはっとさせられる文章もたくさんある。その一つで今の自分に関わると思われることを長くなるけど引用。

『たとえばインターネットを通じて発言することができたとしても、「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独特の商品に出会うのである−労働能力または労働力に」と前回も引用したように「市場」における「商品としての労働」の抽象化の概念からすればインターネットの「個人的なウェブサイト」が純然とした「市場」ではないことによってそれは、マルクスが言う「労働」とはまた異なる種類の「労働」になってしまうのであれば、本誌に連載することではじめてこうして書く「行為」が「労働」として規定されるにちがいない。』

これは宮沢さんが、自身物を書くことで生計を立てている立場から、「労働」としての書くという行為について考えている一節である。これって、つまりこういった『ブログ』で書くということは世間一般に定義されている『労働』にはなりえないということを言っていると思うんです。


■ 例えば、有名人がこういったブログや公式ホームページ上で何かを主張するとき、それは何かの情報であったり、日ごろの些細な言動だったりすると思うのですが、それを見るファンと呼ばれる人たちは公のテレビや情報誌では知ることが出来なかったその有名人の新たな知識を知ることになり、有名人と自分との間に直接的な接触がなかったとしても、なにかしらの深い理解が生まれ、何かを共有しているという手応え(それが錯覚であっても)をつかんだ気になれるのだと思います。そして肝心なことはそうやって有名人に対してより深い理解を持てたからこそ、その次の段階として、公の場でその有名人が活動する際、つまり有名人が「市場」という場所に出現したときに、まさにサイトを見たファンの人たちすなわち「貨幣所持者」たちは、有名人が行う「商品としての労働」にお金を支払うという形でアクションをとる、ということにつながると思うんです。


■ 日本の現状において、例えばミュージシャンでも作家でも、その人の作るものに対して、受け手としての消費者がリアクションをするにはその作り手が行った労働の産物つまり商品を買うという手段がメインになっていると考えられるわけで、作り手がブログやホームページに何かを書くという行為が「市場」で「貨幣所持者と出会う」行いではないから「労働」とみなされなくても、その行為がきっかけとなって「労働」(つまりCD製作活動、執筆活動)によって作られた「商品」(完成したCD、製本された本)が「貨幣所持者」に「市場で見つけ出される」可能性が高くなるのであれば、それは無駄ではないわけです。


■ 有名人たちは知名度というバックボーンを持っているから、それをもっと広げるために「ブログ」なり「ホームページ」をつくります。でも僕は世間では名も知られていない身分の者で知名度なんてありません。じゃあ、そんな僕が有名人と同じように「労働」にならない「ブログ」を書き、「TOKYOEND」というホームページを持つ意味はあるのだろうかという問題が出てくるのです。


■ 当然、あらゆる行為を資本の流れに組み込むことは野蛮なわけで、僕自身「ブログ」を書くという行為は『自分の文章力の向上のための練習』であり、『自分に必要だと思うことを後のために記しておく』こととしてやっているわけなんですが、本当にそれだけのためかとも考えるわけなんです。例えば『東京の果て』の公演のためにわざわざ『東京の果て製作日誌』とブログのタイトルを変更してまで外部の人たちに自分たちの準備の様子を提示していくことは、上の2つの目的からは明らかに外れた行為です。たくさんの人が僕らを知っているなら、こうやって製作日誌を公開することにも意義があるかもしれないけど、まったく無名の僕がいろいろ公開しても興味を示さない人がほとんどだと思います。そういう僕の行いを目立ちたがりな行為と思った人もいるかもしれません。けむたく感じた人もいたのではないでしょうか。


■ 「労働」にもならない。「自分のため」でもない。それでも外部に『ブログ』なり『ホームページ』を作ってまで自分の活動を公開していくのはなぜか。


■ それはやっぱり単純に、知ってほしいからなんです。「ブログ」や「ホームページ」を見たことで、僕らの存在を知って何かしらの興味を持ってもらい、そしてまだまだ小さいながらも劇場やライブハウスという「市場」の場に立ったとき、そこで「貨幣所持者」である人たちが僕らを見つけに、公演を見に来てくれるために。「貨幣所持者」と書いたけどお金を欲しいが第一では当然ありません。でも今、この状況ではお金を払って観に来てもらうしかないからそう言葉にするしかないのです。無料でもいいから見に来てとは言いたくないです。なぜならそれでは活動を続けられないから。だから、もっとたくさんの人に知って、たくさんの人に見に来てもらいたいのです。だから「ブログ」に書き続けるんです。


■ かげわたりの家常さんが自身のブログ(06年1月20日)で書いています。

『ひもではない僕だが、
人生のミラクルはめちゃくちゃ多い。
というか、ほとんどがミラクルでできあがっている。
良くも悪くも、まったく予想不可能。
それを楽しんで生きているところもある。
でも、いつも思うけど、ミラクルは突然はやってこない。
言っていることが矛盾してるけど、そうなんだよねえ。
ずっとずっと鍛錬して、いつでもチャンスを掴めるようにしとくんだ。
必ず、流れはやってくる。その流れに乗れるか、乗れないかは、
鍛錬していたかどうか、怠けていなかったか、
美しい生活を心がけていたかとか、そういうことが重要になる。
もしも、ちゃんと一生懸命生きていれば、チャンスが来たときに、
自信を持って、どかーんと流れに乗っていけるわけだ。
それが、時により、すごいミラクルに繋がる。』

偶然は、偶然を必死で待っている人の前にしか訪れない。僕はそう思う。家常さんの意見にまったく同感。だから、僕はまったく見ず知らずの人に向けて必死で「ブログ」を書き続ける。見知らぬ誰かと偶然出会う確率をもっと高くするために。


■ そして「ブログ」を書くだけで満足しているわけにはいかない。なにせこの行為は「労働」ですらないのだから。その上の段階、「労働の産物」つまり僕が作った作品こそ肝心なのだ。「市場」は厳しい。「商品」は生半可では「貨幣所持者」の手には渡らない。マルクスは『資本論』の中で「商品」は市場において「命がけの飛躍」をすると書いているという。宮沢さんはこの「商品の命がけの飛躍」について語る。

『繰り返すが「商品の命がけの飛躍」である。「命がけ」が意味するのは、小さな共同体の内部で成立する、曖昧で、心優しい「交換過程」など、「商品」の本来的な姿ではないことを言い表すだろう。「市場」という過酷な場所に放り出されてはじめて、「商品」は、「商品」として輝く。商品所持者はその「過酷な市場」に生きざるえないこと、いわば、アウェーで闘わざるえない試練に立たされる。』

自分が演劇を発表している場が、いまだ友人たちしか集まらない小さな共同体の内部での行動でしかないことを言われているようで身が引き締まる思いだ。僕らが「市場」と信じて立っている場所はまだ本来の「市場」ではないのかもしれない。作品を作る立場を目指すのであれば、僕らは批評される立場に立たなくてはならない。そのために自分を磨く。「市場」という過酷な場所であっても輝く「商品」を生み出すために。


■ かげわたりやカタカナの谷川さん、そして僕や『東京の果て』に関わってくれた役者のみんなは、今「市場」の場に立つために「労働」にすらならないこういう場でアクションを起こしつつ、やがて辿りつく「市場」で「命がけの跳躍」を成すために、日々練習に、稽古に、明け暮れている。何も僕が代表して言葉にすることではないのだけど、僕たちの活動をいろんな人に知ってほしいと思っている。だから、『ここから広がれ』といつも考えている。そんな思いも多少なりあって、こうやって日々「ブログ」を更新している。


■ そしてまだまだ修業中。