東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『愛国問答』

■ だんだん過ごしやすい気温になってきた。朝晩は本当に心地良い。夏はもう終わろうとしている。その代わり月がきれいに見える季節になった。入道雲がきれいな季節が終わると月を見る。そうやって季節は移り変わる。


■ 週末もいろいろあった。それはそれとして、とにかくコンタクトレンズを装着することがしんどくなってきた。ソフトレンズなのに一日着けていると目がショボショボする。かつてはハードレンズを着けていたけどとてももたなかった。目が弱いのか。無理してコンタクトを着ける必要はないけど、メガネより楽なのは事実。しかし、目は一歩間違うと失明とかあるから。せめて使い捨てコンタクトにしようかと思案する。


香山リカ福田和也 「愛国」問答(中公新書ラクレ)読了。

日本のナショナリズムを考えるときに、もはやアメリカとの関係を無視することはできない。

『議論の中心になっているのは、基本的に軍事力ですね。それが(*注釈 世界のどの国よりもアメリカが)優っているという事実から全てが始まっている。軍事力というのは、それをつくり出すテクノロジーと結びついていますね。だから、アメリカへの抵抗は、テクノロジーに対して最終的にどういう態度を取るのか、あるいはグローバルな商品や資本展開をどう考えるか、という問題と重なってくる。』

世界資本主義の『進化していく方向が、より便利になるとか、何に使えるかというほうへ洗練されていく限り、人間が選ぶのではなくて、テクノロジーが選んでいるという状況』が続いている中で『人間の主体性や決定権をどこに求めるのか、求め得るのか問う必要がある。何かを欲求したり何かを選ぶということは、本人は主体的だと思っているけど、そこに本当に主体性はあるのか』ということを考える必要があると語る福田さんは、新しい普遍性をもう一回考えることが大事だという。

『やはり世界資本主義としての問題意識は抜きんでていて、その中では旧来のマルキシズムの枠組みではもう人々の連帯感は回復できないと。要するに彼のいうところの「人を手段としてのみ見ずに目的として見る」ということを回復するためには、今までとは違うマルクスとカントをもう一回接合したような運動を始めなくてはいけない』

しかし『それは反技術からは絶対にあり得ない』と語っている。


つまり今ある資本主義を考え直してみよう、ただし、資本主義を完全に否定する(テクノロジーを放棄する)のではない形で、違う姿の資本主義を考えようということか。とても興味深い話だった。アメリカとの関係をテクノロジーとの関係として考える見方はなるほどと思えたし。

それにしてもあとがきで福田さんは今回の本を作るための対談の段取りなどについて出版元の中央公論の対応にかなりはっきりと不満を言っていて、あとがきの大部分がまるで週刊「SPA!」の「これでいいのだ!」みたいになっていた。まぁ平然と文句を言う福田和也さんもアレだけど、それをそのまんま載せる(もしくは手直しがあったのかもしれないけど)中央公論新社もなかなかしたたかな感じだ。


■ ある方のブログに次のような文章があった。

『ありのままを見ているという人に限って、何も見れてない。
かく言う俺もいまだにそうだろう。
そういう人は、単純な図式に世界を当てはめて、集団に守られたけったいな理屈をつけて、混沌を直視せずに安穏と過ごしている。
そういう人には片目でしか世界を見てないので、世界の幸福も不幸も限られる。』

どきりとする文章だ。僕も怠ってはいけない。日々修業だ。