東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『映画の日』

■ 雨の2月1日(水)。雨でも映画の日。都合よく仕事が休み。そしてタイミングよく稽古が休み。すわ映画。


恵比寿ガーデンシネマで上映しているウディ・アレン監督の『僕のニューヨークライフ』を観る。かなり雨が強く降っているにも関わらず、ほぼ満員。ギリギリに入ったので、一番前の席で観ることになった。ウディ・アレン節全開の喜劇。登場人物たちは相変わらず一癖も二癖もある駄目な人たちばかり。よくよくみれば切なくなるような救いのなさなのになんだか笑えてしまうところがウディ・アレンの映画の面白さか。


■ 邦題からも明確だけど、舞台はニューヨーク。ハリウッドに対抗するためだけにこの場所で映画を撮り続けているわけとは思えない。ウディ・アレンなりに何かニューヨークという『土地』に感じるものがあるはず。今回の映画ではさらっと触れてる程度だけど、例えば主人公がユダヤ人であるという設定とそれにまつわるエピソードは、たくさんの人種が入り混じっている土地としてのニューヨークだからこそ出てくるのだろうし、映画のラストで主人公がニューヨークからカリフォルニアに旅立つというくだりも、日本でいうところの東京から大阪へ行くというのとはまた異なる独特の意味があると思われる。ニューヨークという『土地』を離れるということの意味は、そこに住む人と日本人の僕が考えるものとでまた違う気がする。ニューヨークという土地を知れば知るほど(といってもそれはホームページにあるような観光マップと照らし合わせるだけではなく、もっと風土、歴史などといった観点などからといった意味で)この映画をさらに深く理解できるのかもしれない。


■ ところで、邦題というのは誰が考えるのだろう。この映画の原題は『anything else』。ヤフーの辞書機能で直訳すると「他に何か」という意味だけど、映画の中では「人生なんてそんなもんだよ」という意味合いの台詞の語尾に印象的に使われている。拙いリスニング力なので、ひょっとしたら違うかもしれないけど。こっちのタイトルの方が映画の内容そのものを言い当てている気がする。まぁ当然か、ウディ・アレンが自分で考えたタイトルだろうし。なによりも人生というものに対して、さらっとそう言ってのけるウディ・アレンという存在がすごい。


■ まぁ、こういう邦題がついた背景にはいろいろな経緯があるのだろうけど。この映画が製作されたのが2003年で、聞くところによると2005年製作の『Match Point』から、ウディ・アレンは製作の拠点をニューヨークからしばらくロンドンに移すのだという。2004年製作の『メリンダとメリンダ』がニューヨークを拠点に製作した最後の映画で、こちらはすでに日本では劇場公開済み。製作順では順番が逆だけど、この『僕のニューヨークライフ』が日本におけるウディ・アレンのニューヨーク拠点映画の最後を飾る映画となる。この映画のラストシーンではニューヨークを離れる描写があるし、なんだかいろいろな思いが込められているのかなとか考えてしまう。でも、そこらへんはきっとこっちの考えすぎだろう。ウディ・アレンジはロンドンを拠点にしてもペースを崩さず映画を作り続けている。ハリウッドから遠く離れたニューヨークで映画を作り続けたように、きっとこれからもロンドンに行こうがどこに行こうが、ウディ・アレンにしか作れない映画を淡々と作り続けるのだろう。どんな状況におかれたとしても、それこそウディ・アレンは「anything else」とさらっと言うに違いない。


■ 夜になってからテアトル新宿へ。青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を観る。爆音。まず冒頭の海のシーンに音でやられる。音響を際立たせると波の音ってこんなにすごいもんなのかと驚かされる。なにか加工されてるのかな。とにかくすごい。


■ 映画の中のほとんどのシーンは北海道の釧路周辺で撮影されたものだそうで、特定の場所までは判らないのだけど、映画の中で映される風景は、かつて大学時代によく車を走らせた見覚えのある風景ばかりだった。なんというか、『寂寥』って言葉が浮かんでくる風景なのです。映画は2015年というそれほど遠くない未来の話だけど、レミング病という奇病が世界中に蔓延していてどこか終焉を予感させる設定であり、その雰囲気と釧路周辺の風景がなんとも言えず相まっている感じでして。北海道は本当に広くて、特に僕がよく知っている道東方面は、車をすごい速さで走らせてもずっと同じような草原の風景が続いて、人も見えなくて、家もなく、なんだか最果てに着たような気分を猛烈に感じさせてくれる。その地域に住んでいる方には失礼な言い方なのかもしれないけど、僕にとっては本当に寂しくなるような場所なのでした。


■ そういう風景の中にも確かに美しさがあるわけで、映画の中ではそういう風景描写が終盤までとても丁寧に続いていました。それが浅野忠信さんが演奏するシーンで一変。それまでの枯れたような風景から、車の移動という手段を使って緑色の草原が広がる場所へと移り変わる。視界が広がって、なんか画面全体から生命力満ち溢れてくる感じがしてくる。そしてそこにとてつもない音楽が爆音で演奏される。ホームページの青山真治さんの言葉を借りればその音は「まさに地球が奏でる音」であり、僕はすっかりその「音の洪水にのまれ」たわけでした。もう、何も考えられなくなる。ただ、音と映像が頭の中に飛び込んでくる。映画館でないとこの迫力は味わえない。まさに『映画』だったわけです。


■ 映画のラストシーンは雪が降る風景。雪は冬の到来を告げるもの。そして冬は終わりの季節浅野忠信が演奏する音楽はレミング病患者の延命には役に立つものの、確実に治すという明示はないままに映画は終わる。ひょっとしたらこのラストの描写も、いずれ全ては終わるということを暗示しているのかもしれない。だけど冬の後には必ず春が来る。春は生命の誕生する季節だ。ずっと先に必ずやってくるだろう春の訪れを、冬の間中じっと待ち続ける『生きる意志』を持った強い生命がこの世の中にはまだあるはず。冬の始まりという絶望的な描写で終わるこの映画は、それでも未来への希望を感じさせる何かを兼ね備えていたと思う。