東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ワンピース』

■ 駅のエスカレーターは大人二人分の幅がある。暗黙のルールとして関東圏では(どこまでの地域かは詳しくは知らないですが)エスカレーターの右側はエスカレーターを歩いて上っていく人が通り、左側は歩かずに止まったままの人が並ぶという風になっていると思います。


■ 僕はせっかちなので大体エレベーターの右側を歩くのだけど、今朝、地元の駅のエレベーターを上ろうとしたら右側も停滞していた。上のほうを見ると中年の男性が右側にいるのに動かずに立っていた。まぁこういうことはよくあることなので気にしないでいると僕の前にいた人がその中年の男性に「おい!どけよ!」と突然大声で怒鳴った。中年の男性はびっくりして後ろを振り向いてからエレベーターの左側に移動した。右側にいた人たちは遮る人がいなくなったので自然と歩き始めた。


■ はっきり言って嫌な気分になった。きっかけはその怒鳴った男への嫌悪だけど、よくよく考えてみると、その怒鳴った男に対してだけではなくもっと別のことに対して嫌な気分になっていた。怒鳴った男はきっとその男なりの『正しさ』を振り撒いただけなのだろう。確かにいきなり怒鳴るのは唐突だとは思うけど、その『正しさ』がいいかどうかは僕には判らない。中年の男性にしたってもしかしたら今までこういうエレベーターの暗黙のルールを本当に知らなかったのかもしれないし。それに知っていたからといって、断固として守るべきことだとも思わない。これはその2者だけの問題ではない。そして、そうやって何かのときに揉めるからきちんとルール化しておけばいいんだよという意見にも僕は反対だ。何もかもルール化していく方向は、思考停止につながる。


■ 僕は心のどこかでは「あのおじさん、歩かないなら左側に寄ってくれないかな」と思っていた。それなのに何も言葉にせず自分の内側にしまいこんでいた。そんなもんだと思いながら、何事もなく通り過ぎることを決め込んでいた。男が怒鳴ったあと、僕は怒鳴った男の後ろに並んでいたわけなので、そのまま流れに委ねて上に歩き出した。怒鳴った男の側に立つこともなく、中年男性の立場に立つこともなく、その2人の中間のなんだかぼんやりとした場所に立っていた。そういった宙ぶらりんな立ち位置に自分がいたことに対して僕は嫌な気分になった。中年男性と怒鳴った男、どっちが悪かったかといったことに還元して終わりという問題ではない。一番考えなくてはならない立場にいたのはきっと僕だ。どっちにもつかずぼんやりとした立場にいることが一番よくない。じゃあ何をどういう風に行動すればいいのか。それは判らない。判らないんだよなぁ。でも、絶対にああいう立ち位置に居座ることが一番よくないはずだ。そういう立ち位置にいることに抵抗していくことが必要なのだ。


■ で、そんなことがあった後、職場に行く前に、コンビ二で今週号の少年ジャンプを立ち読みしていたら、『ワンピース』を読んでなんだか泣きそうになってしまった。僕は『ワンピース』が好きだ。『ワンピース』は主人公ルフィとその海賊団の話。この海賊団は『群れ』として存在している。『群れ』とは雑多な民衆からなる新たな共同体の概念を定義した言葉だ。以前もこの日記で引用したのだけど、『現代思想』(青土社)2004年12月号に掲載されている高祖岩三郎さんが『群れ』について書かれた文章を再び引用してみる。

『「群れ」は「群集」のように、一定の原理によって統合された、一方向に向かう大勢の人々の集合ではない。「群集」はそのまま国民国家に所属したり、あるいは一階級を構成することもあるだろう。それは大きな組織化に向かう「分子化」運動に照応する。それに対して「群れ」は、「群集」と常に矛盾し対立するものではなく、それを構成する部分となる時と場所もありうるが、まったく別の原理によって形成されている。それはあくまでも適度に少数のグループで、優柔不断、機動力に長け、現代都市のさまざまな行動に適任である。しかしどこか不安定で、頼りなく、またいかがわしさを臭わせている。その集合性がそのまま大工場に雇われたり、大会社の社員に成ったり、軍隊に徴用されたりすることはない。このカテゴリーこそが、もろもろの移民社会とその集合性のある次元に近いと思われる。「群れ」概念は、我々が想定する雑多な民衆が持つ公共性を見事に捉えている。(中略)それは「分子化」運動に対する「原子化」運動に対応するだろう』

『「群集」というのは、あくまで我々が「開発」の時空間の中で、その巨大な力に脅威を感じつつも、それに従って生活の糧を稼ぎ出世に邁進する時の集合であり、「群れ」とはそこから出来るだけ離れて、自己と出会い直し、身体と情動の全体を以ってこの巷の微細な時空間と同一化する時の集合である』

僕は思いっきり『群集』にいる。しかもそれはすごく漠然とした『群集』で、単に日本人だとかその程度のつながりでしかない集団だ。近々あるオリンピックとかその類のことになったらことさら日本人を応援しだすような奇妙な『群集』だ。そんなところに僕は安穏として居座ってしまっている。きっとこの場にいることはすごく楽だ。だからついついこの場所に居座ってしまう。


■ 同じ系列の漫画であると思われる『ドラゴンボール』の最後は、主人公の孫悟空が全世界の人たちから元気を集めて元気玉を作り、それで魔人ブウという最大の敵をやっつけるという流れだ。全世界の人たちが協力し合い何かを成すという設定が僕にはすごく欺瞞に満ちたものだと感じる。そういうことを信じることは大事かもしんないけど、きっとそれは不可能に近いことだと思う。


■ その点で『ワンピース』と『ドラゴンボール』は対極にある。『ワンピース』のルフィ海賊団が頼るのは自分たちが帰属している『群れ』だけだ。そしてその『群れ』を破壊しようとするものは何者であろうと命を賭けて退ける。今週号では、彼らは仲間の一人を守るためについに世界政府を敵にまわす。何かを敵にまわして戦うというアンチヒーローだからかっこいいのではない。彼らが自分たちの『群れ』を、そして自分たちの立ち位置を命がけで守り続けていることがかっこいいのだ。著者の尾田栄一郎さんはルフィ海賊団を通してこの『群れ』を徹底的に書き続けている。僕が知る限り、こういう新たな共同体としての『群れ』を意図的に描いているのは『ワンピース』と『ハウルの動く城』だ。


■ 常々思っているけど『ワンピース』は単なる冒険活劇漫画ではないと思う。「空島」編は土地と報復についての話で、明らかにイラク戦争やテロ、さらには宗教間の対立までも意識しているし、現在やっている世界政府との対立において、世界政府の立場の人たちが口にする『正義』は、アメリカが口にする『正義』と共通しているものを感じる。


■ 誤解の無いように付け加えるけど、『群れ』は単に『群集』から離れるだけのものではない。『群れ』でいることは生半可な覚悟では駄目なのだ。命を賭けても守る自分の立ち位置。『群れ』という存在。自分の中にそういう場所をきちんと持てる強さ(覚悟)が僕にはあるのかなと不安になる。