東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『犯罪の見取り図』

■ 2月6日の日記に家常さんがコメントをくれたけど、家常さんの言っていることはすごくよく判る。僕の文章もテンション任せに書いてしまって誤解を受けるような部分があったわけで、それは反省。『群れ』を形成しないで『群集』に居座る人が駄目なわけではない。それは絶対に違う。書いたことと矛盾しているかもしれないけど、『一人』でも『群れ』でも『群集』の中でも、どの立ち位置にいたっていいんだと思う。その立ち位置にいることに自覚的であれば。ぼんやりと無自覚にその位置にいることが、いや、違うな、人はそれほど自分の立ち位置に無自覚ではない。諦めにも似た醒めた感覚を持ちながら今の立ち位置にい続けることがよくないんだと思う。かといって今の立ち位置を変えないまま、うまくやっていこうとするのもやはり僕には出来ない。革命を起こしたいとかそういうことではなく、今、自分が立っているこの立ち位置に自分の意地とか誇りを持ちたいなと思うわけなんです。その結果自分の立っている位置が『群集』の中ならそれでもいいんだと思うんです。


■ 意地とか誇りを持つためにもっともっと学びたいし、もっともっと自分にとってこれだと思うものを作りたいわけで。で、単に自己満足で終わらないために作ったものを発信したい。そして、自分が作ったものを受け取ってくれる人が、やはり自分と同じように誇りを持って自分の立ち位置にいる人であればなぁと『信じる』わけで、またそういう人からいろいろと意見をもらったり刺激をもらえればなぁと思うわけなんです。まだまだ僕は未熟だし、学ばなくてはならないことがいっぱいあるから。だから家常さんのコメントみたいに僕の意見に指摘を頂けることは本当に勉強になります。


■ 話は変わりまして、別役実さんの『犯罪の見取り図』(王国社)はとても面白かった。この本の初版は1994年。別役さんが書かれた文章、主に80年代に起こった事件を題材にしたものをまとめた内容で、犯罪から時代(つまり80年代)を考証しようとする試みで書かれている。別役実さんの考察眼の鋭さ、文章力がページをどんどんめくらせていく。


■ で、別役さんは『家族』をテーマにして書かれた文章を本の最初と最後に配置している。当然、『家族』に関する事件だけを取り上げているわけではなく様々な事件を取り上げてはいるものの、そういった内容を挟み込むように『家族』に関する文章を書くことで、別役さんがこの時期に起こった犯罪の一因として『家族』の存在を意識されているのではないかと思われる。


■ 最初に別役さんは1980年に起きた『イエスの方舟事件』『新宿バス放火事件』『金属バット殺人事件』を題材に取り上げている。そしてこの一連の事件を『「家庭」であり「家族」であるものの変質によって促された事件である』とし、『事件の主導者がそれぞれ、確かに事件を主導した事実は判然としているにもかかわらず、極めてあいまいな根拠に基づく不安感にそそのかされて、受動的に事件に参加させられている感じがある』と述べている。また別の言い方として『関係不安』がもたらす『共同体の崩壊もしくは変質に直接促された事件』とも位置づけている。この考察が興味深い。本文から引用。


『確かに「家庭」というものはあったし、気がついた時既に我々は、その無意識な対人関係連鎖の中に、しっかりと植えこまれていた。それはどちらかといえば、意味である以前に実存であったと言えよう。従って我々は、いわゆる「近代的自我」が「封建的家庭」(*戦前の家庭の意で使われたと思われます。引用者註)に気付くように、それを対象として眺め返す視点は持ち得なかった。もしかしたら、「近代的自我」の溶解と「封建的家庭」の溶解が、同時平行的に行われていて、それぞれをそれぞれのものとして確かめる支点や力点が喪失され、アメーバーのような環境になっていたのかもしれない。』


この考察は一つの犯罪の分析を超えた80年代という時代を見つめる別役さんの目線だ。そして別役さんはこういう環境におけて人の「家庭」認識の在りようも変わってきていると書く。


『独立し、それ自体で完結した実体としての「個」の自覚ではなく、関係の中の点に過ぎない「孤」の自覚が、アメーバーのようにまとわりつく環境のもとで、とめどもなくもがき続ける、というのが我々の最初の、「家庭」認識のありようだったのではないか、と思われる。そしてこのことは、個体が成熟して、無意識的な対人関係連鎖から意識的な対人関係連鎖へと「棲みかえ」を行おうとする時、自覚されはじめる。もちろんこの場合の個体は、前述したように「個」ではなく、「孤」にすぎないから、「棲みかえ」を意識すればするほど、無意識的な対人関係連鎖(すなわち「家庭」)との未分化なつながりに取りこまれ、同時に、意識的な対人関係連鎖(すなわち「社会」)との明確なるが故によそよそしいつながりに拒絶されるという、極めてアンビバレントな関係のもとに置かれる。更に問題であるのは、無意識的な対人関係連鎖である「家庭」から、それ自体の秩序法則が読みとれないのはともかく、実は現在、意識的な対人関係連鎖であるはずの「社会」からも、表面的にはともかく本質的には、それ自体の秩序法則が読み取れなくなってきつつある点である。』


長い引用でアレですが、かつて判然としていたはずのものが曖昧模糊として判りにくくなってきた始まりの時代として別役実さんは80年代をとらえているのではないだろうか。その判りにくくなってきたものの代表として「家族」を挙げていると思われる。


■ そして本の最後に別役さんは再び「家族」に関する文章を載せているのだけど、ここで別役さんは1994年の「日本人の国民性全国調査」の結果を例に挙げている。国民性全国調査は文部省にある「統計数理研究所」によって調査される5年に一度の行事であり、1994年の調査とはつまり80年代を経て初めて行われた調査である。国民性全国調査の「一番大切に思うものをひとつだけ自由に」という項目で一番に挙げられたものが「家族」であったという。「家族が一番」という意見は「生命・健康」「愛情・精神」「子供」「仕事」などを押さえ42%の支持を集めたのだという。このことに関して別役さんはこう書く。


『ここに示された「家族」とは一体なんだろう、と私は考える。そして実は、この私の疑問こそ、人々に「家族」と答えさせた最大の理由なのではないか、と思うのだ。つまり人々は、確固たる「家族」のイメージをここにきて見失い、自分自身のものとして確かめ得なくなってきているからこそ、それを「大切にしなければならない」と考えはじめているのではないだろうか。言ってみれば私には、この「家族」の急激な伸びが(*1963年の国勢調査では家族が一番大事は13%だった 引用者註)、逆に人々の「家族」への不安の増大を示すもののように思える。』


この別役さんの指摘は的確であると僕は思う。


■ 改めて書くけどこの『犯罪の見取り図』の初版は1994年だ。正確に書くと1994年11月30日だ。本の中で扱われた事件も1980年代に起こったものに限定されている。実際に、本に収められている文章も大半は80年代に週刊誌等に掲載されたものだ。犯罪から80年代を考察するものなら、80年の終わりもしくは90年の初めに出版されてもよさそうなものだけど、別役さんは1994年まであえて出版を待っている。このことはあとがきにはっきりと書いてある。あとがきにはさらに80年代は「犯罪の時代」であったとあり、80年の終わりから93年までは「犯罪不毛の時代」とし、94年になって再び、眠りから覚めたかのように派手な犯罪が発生しはじめたと書いている。別役さんは時代というものを、年数ではなく犯罪で区切ることを意識していた。だから1980年代と年数で時代を区切り本を発行するのではなく、犯罪によって時代が変わるタイミングを見定めて94年にこの本を出版した。だからこの本は正確に言うと1980年代から1993年のバブル期の間に起こった犯罪を基に時代を考察した本だ。そしてあとがきによって1994年11月の時点で、それ以後に起こる事件は1993年以前のものとはまた異なる要因によって引き起こされると予言しているわけである。ちなみに1980年代から1993年までの「関係不安」による「共同体の崩壊もしくは変質に直接促された事件」として最後に別役さんが取り上げた事件は1989年に起きた「今野真理ちゃん誘拐殺人事件」だ。この事件は宮崎勤が起こした一連の「埼玉県誘拐殺人事件」の最初の事件である。そして1994年に、また新たな犯罪史が始まると別役実さんに予想させた事件は6月27日に起きた「松本サリン事件」だった。本を出版するわずか5ヶ月前だ。そして地下鉄サリン事件は「犯罪の見取り図」発行の4ヶ月後、1995年の3月に起こる。別役実さんの時代を読み取る目の確かさに驚かされる。


■ その後、今日まで続く犯罪がどのような要因の基にまとめられるのか。もしくはまとめることなど出来ない状況なのか。犯罪から時代を読み取る別役実さんならどう考えるのだろうか。ちなみに最新の日本人の国民性調査は2003年に実施されたが、一番大切なものという項目は相変わらず家族であるという。この調査では45%の人が家族が大事と答えており、1994年の42%よりも増えている。このデータが示すものはなんなのか。犯罪はどのように変わっていったのか。つまり時代はどう変わっているのか。