東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『よく観た1日』

tokyomoon2006-10-08

■ 7日(土)の夜に久しぶりに大学の頃にお世話になった先輩と会った。夜の7時くらいに待ち合わせをしていたのだけど、僕の仕事がなかなか終わらず結局、待ち合わせの場所に行けたのは夜の9時。申し訳ないことをしてしまった。


■ 久しぶりにいろいろとしゃべる。その先輩は子供が2人いて、すっかり母親になっているのだけど、話を聞くと今も大学の頃と変わらずめちゃくちゃやってるところはめちゃくちゃやっていて、そういう話を聞くのはとても楽しかった。海外旅行に行くことが多々あるそうで、すでに8カ国くらい行っており、すごいなぁと感心する。僕など、漠然とした怖さがあって海外に行けないのだけど、先輩曰く「酒さえ飲んどけばなんとかなる」とのことで、そういった勢いというか乗りもまた先輩らしく、海外での酒にまつわるエピソードをいろいろ聞かせてもらうと楽しくてしょうがない。そうやって時間を過ごしていたら、すっかり酒が回ってしまって僕はフラフラになってしまった。ふと気がついたときには電車に乗っていて、一体いつ先輩と別れて電車に乗ったのかはっきりしない。それでもすごく楽しかった。


■ 8日(日)。日中、豊島区のある場所である方と会う。今後、何かとお世話になる方。年配の方としゃべることの面白さというものがあると思う。もちろん、会話の内容が同年代の人と話すことと違うこともあるのだけど、多分、自分と同じくらいの年齢層の人たちと喋るときとは違うリズムがそこにあるからではないか。ある意味新鮮で、そういう会話も面白い。


■ その後、時間が出来たので公開が始まった「カポーティ」を観に有楽町へ。ところが、ちょうどいい時間の回のチケットが売り切れ。それで夜7時の回のチケットを購入したのだけど、4時間ほど時間が空いてしまったので、銀座シネパトスで「太陽」を観た。久しぶりに映画のはしごをした。


■ 台詞で多用される「あ、そう」が、本当に口癖だったのか、それとも役作りのために当てられた台詞なのか無知なので僕は判らないのだけど、一つ思ったのはロシア人であるアレクサンドル・ソクーロフは、この言葉を意味を理解したから用いたというわけではないのではないかということ。まぁ、もちろん、意味は翻訳することで理解できたとは思うのだけど、意味云々でその言葉を台詞として採択したというよりは、「あ、そう」が持つ音の響きに惹かれたのではないではないかと思うわけです。イッセー尾形さんが発する「あ、そう」のどこか抜けた響きが昭和天皇という存在をより人間だと感じさせることに有効だったのではないか。


■ 映画のラスト、自分は人間であることを宣言し、皇后役の桃井かおりさんとまるでアドリブではないかと思えるような会話を交わすが、そこでも「あ、そう」が多用されて、ことさら人間らしさが強調されたところで、侍従の自決の知らせを聞き呆然とするしかない昭和天皇の姿は、同じく台詞としても語られた「宿命」を背負わざるえない立場にいる人物としての昭和天皇の存在を際立たせているように思えた。


■ 「カポーティ」において殺人の罪を犯したペリースミス(クリフトン・コリンズJr)を介抱し、話を聞くカポーティフィリップ・シーモア・ホフマン)のまなざしは自身が公言している同性愛者のそれとは異なる、もっと母性というか父性というか、チープな言葉になるけどそれこそ深いところで繋がった同志を見つめるものだと思えた。だからこそ、まぁこれは好みなのだろうけど、事件当日のことをペリースミスが話すシーンで、犯罪のシーンを挿入する必要がなかったと思うのは、それを語るクリフトン・コリンズJrと話を聞くフィリップ・シーモア・ホフマンの表情だけであのシーンは充分だったと思うからで、確かに見る側への説明とインパクトとしては犯罪のシーンの挿入は効果があったとは思うけど、さらに重要なはずの事件を語り、それを聞く『今現在』の2人の関係性を見せるシーンとしては余計なような気がした。ま、単純のそういう人が死ぬシーンが苦手だからってこともあるのだけど。


■ 死刑直前の最後の会見の場のシーンがその前後とは異なり、手持ちカメラによる撮影がなされていて、そのブレや顔の寄りの感じが、それまでのシーンとは異なる緊張感を出しているように感じ、それもまた良かった。


■ 帰ってからテレビをつけたら佐藤信さんが演出した「エンドゲーム」がやっていてつい観てしまった。なんだか今日はたくさん見た1日だった。


■ 今日の空日記。風の強い1日。昨日、今日と気持ちいいくらい晴れて、空にある雲もなんだかよかった。