東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『抱擁家族と不条理』

■ 職場の同僚とクラフトワークの話をしていたら、次の日にその同僚がクラフトワークのCDを2枚(「アウトバーン」と「人間解体」)持って来てくれた。持つべきものはクラフトワーク好きの同僚。さっそく聞く。「THE ROBOTS」とかクールですな。かっこいいドイツ人です。


小島信夫さんの「抱擁家族」(講談社文芸文庫)読了。家族のあり方を思いつめるあまりに狂気としかいえない様な行動を起こす男と家族の話。その行動がいちいち笑劇的(ファルス)なだけにかえって悲劇が強調されているような印象。もし「抱擁家族」を一言で例えろといわれたらなんとなく印象だけで「不条理」と言ってしまうかもしれない。巻末にある大橋健三郎さんの解説文をメモ。


「今日の世界では、悲劇が悲劇として成立し得ないほどに価値が逆転しかけているからだが、この対極的なものの結びつきによってまた、リアリスチックな小説の世界は、諷刺的と言うよりも、隠喩的あるいは象徴的に増幅、重層化されて、普遍的な層へ肉薄していく。」

「先にも触れたように、今日では悲劇とは並みの言葉で捉えようとすれば一種の同義語反復になるだけで、けっしてその本質を捉えられない、決定的な一つの宿痾となってしまっているからである。その決定的な力に肩透かしを喰らわせて、なお自由、生命、愛を未来に向かって解き放つには、おそらく笑劇という逆説的な戦略意外にない。笑劇が悲劇とじかに向きあえば、宿痾となった悲劇のありきたりな仮面を一度は引っぺがして、悲劇の正体を、そしてそのかなたに新しいものの所在を、少なくとも望み見ることができるかもしれない。もしそうなれば、笑劇と悲劇と一体となって、まったく新しい小説の世界を創り出すことであろう。」


ク・ナウカの主宰である宮城聰さんは現代を生きる役者は「悲劇」を引き受ける身体を持っていないとホームページ上で語っている。それでもなおかつ「悲劇」を演じようとして宮城さんが生み出した方法が語りと動きを別ける2人1役だったのだろうし、はたまた鈴木忠志さんは徹底的に役者の身体を鍛え上げて、その身体と日本の古典とを結びつけることで「悲劇」を日本人が演じる可能性を追求している。一方で直接「悲劇」を演じることを諦めて「喜劇」という方向から「悲劇」的な作品を作ろうとしたのがチェーホフであり岩松了さんで、ベケット別役実さんは「笑劇」という方向から「悲劇」的な作品を作ろうとしたのではないか。(といっても僕はまだ「喜劇」と「笑劇」、そして「悲劇」の明確な違いをわかっていないのだけど。)ともかくそうやって「笑劇と悲劇が一体となってまったく新しい世界を創り出した」結果生まれたものが、今日では「不条理劇」と呼ばれるものなのではないか。


■ でもじゃあその「不条理」ってなんなんだと思うわけです。なにをもって「不条理」と呼ぶのか、その辺が実のところはっきりしておりませぬ。チェルフィッチュの岡田さんはご自身のブログで「不条理」について『複雑さを孕んだ「普通/フツー」』と書いている。


『不条理って言葉って、最終的に「でも結局それって不条理でもなんでもないよね」という結論を要は待ってる気がして、だったら最初から不条理って言葉でなにかを云々することじたい必要ないんじゃないのかって気がどうしてもしてしまう。予定された結論が明らかに準備されている、その手前の段階での暫定的な宙ぶらりん状態のものを指すという仕方でしか不条理って言葉は機能しないのじゃないか、機能していた時代とかがあるいはあったのかもしれないけど、今は機能していないのじゃないか。』


いよいよ不条理が判らなくなって途方にくれる。


■ 27日(木)。新宿で「東京の果て」に出演してくれた井関さん、浦壁さん、横ちんと飲んだ。男だけで集まったときにふさわしい男の人生論を語り合うことに終始したわけですが、まぁほんと男ばかりが揃うと女の人のいる前では話せない男の人生論ばかりで盛り上がってしまうなぁとつくづく思いました。それがまた楽しいんだけど。飲み屋を出てから食べたラーメンもとても美味しゅうございました。