東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『携帯、ニュー』

携帯

■ 今日は曇っていたけど、ぎりぎりで雨降らず。少し暑いけど7月な感じはまだナシ。もう雨はいいから晴れてくれないか。


宮沢章夫さんの『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)を購入。この本は東大で行われた授業の講義録だけど、今もぐりこんでいる早稲田大学の授業でも共通の題材を扱っている部分が多く、授業で聞いたことが本を読むことでより理解できる気がする。


■ ところで講義録には授業風景の写真がたくさん載っている。授業は2005年の10月から始まり、2006年の1月に終わる。大学の日程の区切りで言うところの後期日程に沿っての授業なのだけど、掲載されている写真から授業が進むにつれて宮沢さんの髪が徐々にのびているのが判る。そして年明け1月の講義風景の写真でいきなりすっきり髪が切られている。「あ、年末年始に髪を切った」とまったく本文とは関係ない部分が気になってしまった。それはともかく非常に刺激を受ける本。


■ で、昨日の日記にも書いたけど金曜は早稲田の授業にもぐった。もう大学自体は夏休みになっているみたいで構内はいつもよりも静かだった。そして授業もいつもの半分くらいの学生しか出席してなかった。ちょっと唖然とするけど、そういうもんなのだろうか。


■ 戯曲の書き方として3つのポイントがあると語ってくれた。

① 素材
② 表現の質
③ 方法

演劇にせよ、テレビのドラマにせよ、「何を取り上げるか」という『素材』ばかりが重きをおかれがちだけど、この中で一番重要なのは『方法』なのではないか。つまり「何を、どう描くか」ではなく「どう、何を描くか」を考えることが大事、と仰っていた。以前通っていた芝居の学校に講師として来ていたベターポーズという劇団の主宰の方も同じようなことを言っていた。例えば「りんご」という題材を用いて絵を描くとして、その「りんご」にテーマや意味を付与するというわけではなく、どのような色をつけるか、どのような輪郭を描くか、そういった描き方に私はこだわっていると言っていた。これも方法を重視した考え方だと思う。風車や回転するものを素材として、それをどう舞台の上に立体化させるか。


■ 先週と同様、タニカワさんと一緒に授業を受けて、授業が終わってからまた高田馬場駅付近のファミレスでしばし話しをした。そこでタニカワさんから僕の演出とかその辺についてある指摘を受けた。指摘を受けた点は僕も思うところがあるところで、ほんとうに難しいなと思うところだった。それは集団で何かを作るときのコンセンサスのとりかたとでもいうのか。良いと思うこともことによったら集団内の一部の人だけが感じる良さかもしれない。同じ集団内でその良さを共有できないとき、ではその良さを生かすべきか捨てるべきか。まぁそういった二元論にしてしまうのもあれだから、とにかく真摯に集団内で議論しあってそこから生まれてくるモノを生かすべきなのだろう。ただ、そういう議論を公演ごとに一度きりしか集まらないようないわゆるプロデュース形式の劇団で活発に行うのは難しい。必然的に集団の中心にいる人物、つまり演出をする者の決定権が強くなっていく。だからこそ演出をする者の判断が重要になる。俺はその責任を真っ当したか。いやー、そういう立場はほんと難しい。


■ ところで、携帯が突如壊れたので、急遽買い換えた。新しい携帯は四角い。なんかシャープでいい。ちょっとポケットの中で存在感がありすぎるけどそれもいずれ慣れるだろう。携帯にはポイントというものがつくらしく、以前の携帯のポイントを使ったら7千円くらいするところが3千円くらいで買えた。ありがてえ話だけど、それもまぁ携帯販売や携帯会社の変更を防ぐための戦略なんだろうな。まぁ安いに越したことはないです。