東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『満タンになった』

tokyomoon2008-06-29

■ 週末、私用で東京を離れていた。ゴールデンウィーク以来で新幹線に乗る。きちんと座席に座れるありがたさよ。


それで久しぶりに従兄弟などに会う。小学校くらいの時には夏休みのたびに毎年会っていた従兄弟たちも中学になってから会う機会がばたりとなくなった。お互いにその頃の印象しかないのに今ではもうそれぞれ仕事をしている身。で、片一方にはすでに子供もいるとすると、その時間の隙間を埋めるのに少なからぬ戸惑いもある。従兄弟の子供に挨拶をするとき「ケンスケおじちゃんだよ」と言ったりする自分が、すでにおじちゃんなのだなという驚きもあるし、そういえば小学生の頃の僕もかつてそうやって、自分をおじちゃんと呼ぶ大人から挨拶をされた覚えがあり、血のつながりのあるものたちのなかで続いていくそういう流れというやつが、確かにあるのだとなんとなく実感したりする。


■ 80歳を越すあるおばあちゃんとも会った。おばあちゃんは痴呆がかなり進行してしまっていて、同じことを何度も聞き返してくる。数分前に言ったことさえも忘れていることがある。僕は聞かれたことに対して、できるだけ丁寧に新鮮な態度で同じ返事をかえした。おばあちゃんの世話をしている親戚の人たちは、そういうとき少し疲れた感じで返事をかえしていた。現時点では自分の生活に、おばあちゃんは入ってこない。今の生き方をしながら、おばあちゃんと共に生きていかなければならなくなったとしたら、僕もまた少し疲れた感じでしか、返事を返せなくなってしまうかもしれない。今の僕は部外者でしかない。


「それ、さっきも言ったよ、おばあちゃん」と親戚の人が、同じ返答を4回したあとにおばあちゃんに言った。それをうけておばあちゃんは「生きすぎて、記憶が満タンになっちまったから、忘れてしまう」と言った。80歳を越す、おばあちゃんの口から語られたその言葉の持つ重さ。思いと言っても切実とかではなくて。実にさらっとしたイントネーションだった。だからこそ、その言葉の持つ力。僕は、この場で耳にしたこの言葉を忘れない。


■ どこかへ出掛けると、いろんな人に会う。いろんな場所を通り過ぎていく。僕が通り過ぎていく場所で、僕の知らない人たちのたくさんの生活がある。どこかで誰かが生活をしている。そういうことを考えるとなんだか途方もなくなる。途方もなくなるから考えなくていいのにと思うのに、そういうことをいっつも考えてしまう。


それでもやっぱりもっといろんな場所に行きたいなと思う。