東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『春駒日記』

■日曜日。新宿にあるゴールデン街劇場にて映像として参加させてもらっている『春駒日記』という作品の1回目の公演。朝から劇場に入り、建て込みの際もウロウロしていた。実のところ、僕自身はそんなに早く劇場に入る必要はなかったのだけど、劇場入りというのが、照明のつり込みや音響のチェックなどをしているところを見ているのが好きなもので早く行ってしまった。

劇場の管理をされている事務所がビルの4階にあり、何か判らないことや相談事があるとそこに行く。いつもは見ることがない見下ろすゴールデン街という新しい視界。ここだけ切り取ると新宿とは思えない。



昼過ぎから場当たり。ではけ、照明や音のきっかけの確認。客席でそれを見学。劇場に入って、公演時間の数時間前になって、役者の演技と照明と音楽と映像とが合わさってようやく一つの舞台の形が見えてくる。そういう瞬間に立ち会える面白さ。場当たりをやり、ゲネをやるとあっという間に客入れ直前に。

公演直前、客入れが始まると、なぜだかすごく緊張してきた。久しぶりのこと。公演が終わってバラシ。こちらは1時間もかからずに終わる。芝居に関わるとつくづく思うのだけど、仕込みに苦労に比べて、なぜにバラシはこれほど早いのか。


吉見俊哉さんの『都市のドラマトゥルギー』を読んだことで、この作品に対する考え方のヒントを得た様な気がする。大正時代あたりの吉原。性が商売として成立し、お金によって身体が売り物となってしまった女性が、その見返りを求めるのは『今』ではなく『未来』。「いつか、きっとこうではなくなる」と言葉にするのは『希望がある』とも取れるけど、一方で確約があるわけではない『未来』を担保にするしか、『今の自分』を肯定できない悲劇的な状態であるとも取れる。『未来』という曖昧で甘美な響きの言葉が、ヨロコビを先送りにすることを許可し、金を動かすシステムの歯車として『今』を生きることの原動力となる。主人公は、結果として、『もしかしたら幸せになる未来』を諦めて、そのシステムから逃避する。Kさんが作品として『春駒日記』を選び、そこで描こうとしたことはとても刺激を受けるものだと思う。

だからこそ、それをどう表現するか、演出するかを考えることが重要だと思える。Kさんはそれを直接的な言葉でもって、台詞として舞台上から投げかけた。とても真摯な姿勢だと思うし、長い時間をかけて稽古を積んだその言葉の力というヤツはとてつもないものだった。一つの方法として、この作品があると思う。ただ、そうではない発し方もあるような気がする。直接的に訴えるのとは異なる方法。発し方。


■そういったことも考えつつ、打ち上げに参加。楽しくも充実した一日。