東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『朝に雷が鳴った』

tokyomoon2009-05-09

昨日の朝7時頃。一瞬何かきらっと光る感じがあり、部屋の蛍光灯がどうかなったかなと思っていると、雷が鳴った。その音を合図にして雨が勢いよく降り始めた。少し経ってからまた雷が鳴り、その後また少し経ってから空が光り、さっきよりは遠くの方で雷が聞こえた。

こんなに朝早い時間に雷が鳴ったのを聞いたことがなかった。雷といえば夕立という意識がどこかにあって、だから朝の雷が特別ってわけではないのだけど、なんとなく3回聞こえたその雷が印象に残った。


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7日(木)にOAされたアメトーークの、トークテーマは出演者が見た夢についてというもので、話された内容も面白いものがあったけど、夢というかなり漠然としたものをテーマにしたあたりが面白いと思った。

個人的な見解として、アメトークトーク番組と言うよりも、トーク番組というスタイルを借りて笑いを作っているという気がしていた。それが顕著だったのは以前、放送時間が30分だった頃で、記憶に残っているのはその当時レギュラーだった山崎邦生さんと俳優の岡本信人さんが2人きりで対談をするというものや、ぼんちおさんさんが「おさむちゃんです」を言うだけで30分費やすというやつで、まずはトーク番組なのでトークを始めようとしてスタートするけれど、すぐにトークは破綻し、むしろその破綻を見せて行くという感じであり、そういうスタイルは、しばしば『ガキの使い』でも見られて(例えば岸部シローとゲームをしようという企画のはずが、岸部シローを落とし穴に落として怒らせるやつとか)、擬似的なある場を設定し、ひとまず構成上、中継地点と最終的な着地点だけを定めておいて、あとはその場のノリを重視するそれは、台本がきっちりあるコントとは異なる、テレビ的なドキュメンタリー調の笑いだと思う。

眼鏡芸人なんかも、この路線から発生したんじゃないかと僕は思うのだけど、あのあたりを境に、トークという姿を借りて笑いを作るというスタイルよりも、一つのマニアックなテーマを掘り下げて、そこに生まれる連帯感を楽しむといったトーク番組としての立ち位置を重視するようになった気がする。テーマがマニアックであればあるだけ、それを語る者同士の連帯感が強まり、そこに生まれる空気感が面白くなる。その辺は、例えば『人志松本のな話』とはトーク番組というジャンルながらもきっちり住み分けをしているように思う。『人志松本のな話』は、語り手に重きをおく。『すべらない』にせよ『ゆるせない』にせよ、一つの話に対してリアクションはなされても、次の語り手へと話が移ればそれより前の話はリセットされる。次回放送分が『好きなものの話』と枠が大雑把でアメトークのようにしぼりこまないのも、おそらくそこに連帯感を望むわけではなく、1人の語り手として『好きなもの』を語ることに重きをおくからではないか。

話がそれたけど、アメトークの夢をテーマにした回の、番組のラストは、実際に収録が行なわれたテレビ朝日に出演者が泊まり込み、翌朝にどんな夢を見たかを報告するという内容。最近のアメトークの連帯感重視の中に、ドキュメンタリー的な試みを加えたような気がする。それぞれの夢はかなり夢だけに支離滅裂で、中には覚えてないと正直にいうものもいる。結果(どんな夢をみたか)はこの際どうでもよく、重要なのはその過程で、とりあえずみんなで寝てみよう、それで夢を語ろうという行動で、その過程を観る視聴者は、過程を目撃するからこそ面白さを感じるのだと思う。『水曜どうでしょう』の場合、場として設定されるのが旅であり、中継点や目的地は設置されるが、何が面白いかと言えば4人の成り行き任せのしゃべりや予想外の出来事であり、それもまた結果というよりは過程を楽しむものとしてあったのだと思う。繰り返しになるけれど、こういうドキュメンタリー的な笑いは、テレビだからこそ生まれる笑いのように思える。