東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『報告/記憶/楽日/告白』

20日(日)。昼頃に起きて、久しぶりの掃除。押し入れの中に入れていた除湿剤が、水で満杯になっていた。恐るべし梅雨。

一息ついてから、娘が産まれたことを鬼子母神に報告に行こうと出かけると、前方から家常さんとYさんにTくんが歩いてくる。ご近所さんとはいえ偶然に出会う。鬼子母神で月一で開かれている『手創り市』がやっており、それを見に来ていたのだと言う。僕も鬼子母神へ行くと言うと、じゃあみんなで行こうということになり、参拝。それから近くのインドカレーの店に入り、昼食をとりながらおしゃべり。


家常さんとYさんは溜池山王にある智美術館で行なわれている高村光太郎と妻の智恵子の展示を観に行くとのことで、誘われたのだけど僕は早稲田大学に行く用事があり、TくんはTくんで立教大学に行く用事があるとのことで、解散。


自転車で早稲田大学へ。演劇博物館でやっている松田正隆さんの展示を観に行く。6月頭から、松田さんの映像作品が新しく展示されている。イスラエル周辺で創作活動をする4人のアーティストに『好きな場所』を問い、そのインタビューを録音。さらに、その場所に実際に松田さん自身がビデオカメラを持って赴き、カメラをまわしてくる。その映像を4:3の画角の額にいれ、映像作品として上映している。イスラエル在住時に、松田さん自身が惹かれた風景をあわせて、5つの映像がそれぞれ無音で展示されており、その額の上の方に、スピーカーが置かれ、8分おきに繰り返される映像とは異なる周期で、街の音や、それぞれにインタビューをした際に録音した語りが流れる。つまり、その場所では、5つの映像と、5つのスピーカーから音が流れている状態。

都市日記と題された作品。それは1つ1つの映像というより、展示室全体のことを指す様に思える。展示室に置かれたパンフレットに松田さん自身が語る。

その人たちが語りながら思い描くその光景のことを、私も見たいと思うのだが、見えるはずはなかった。私は、その人たちではないからだ。それで、私は、その場所を教えてもらい、その人たちが語った、その記憶の場所へビデオカメラと録音機材を持って行き、その場所の光景を記録することにした。それ故に、今、このテレビモニターに映し出されている光景は、その人たちの語った「好きな場所」でありながらも、私の映した、私の視点でもある。

さらに、その映像を見る僕がいる。映像は、8分という時間の区切りがあり、その中でもカットがかわる。そこには編集をする松田さんの意志があり、それを僕は観る。アーティストたちが、それぞれの好きな場所を語る言葉や音がスピーカーで流れ、その音とはずれながら映し出される映像、それを早稲田の演劇博物館で観る僕の視点は、アーティストたちとも松田さんとも異なる、僕だけの視点になる。
映像の作品というのは、絵画とは異なり、時間という奥行きまでも作家の手に委ねられる。その感覚を実感。


帰宅後、なんとなくツァイ・ミンリャンの『楽日』を観たくなる。閉館前、最後の上映中の映画館を舞台にした作品。『好きな場所』ではないけれど、映画館という空間を、ツァイ・ミンリャン自身が切り取り、それをフィルムにした作品。改めて場所の記憶という意識で、『楽日』を観る。実際に閉館が予定されている映画館の、やがて失われてしまう空間の記憶を、フィルムを介して、触れる。ツァイ・ミンリャン自身の視線でありながら、それは、すでに、僕の視線になる。


夜に、レイトショーで中島哲也監督の『告白』を観ようと出かけるも、満席で入れないと言われ、驚きつつ、帰宅。


21日(月)。仕事の後始末。凡ミスが発覚し、無駄にばたつく。ひとまず凡ミスを片付ける。それからレイトショーリベンジということで再び『告白』を観にでかける。満席ではないものの、月曜の夜にも関わらず客席はそこそこに埋まっていた。
好きな劇作家の方が言っていた言葉を借りるなら、ある出来事をどのように観るかで、それは悲劇にもなり、喜劇にもなる。『告白』は、そこで行なわれる極めて悲劇的な出来事を、喜劇として映し出していると思えた。スローの多用や、イメージショットを交える画づくりは、監督の出自というか作家性を表している気もする。単なる雰囲気での編集ではなくて、それらがえらく面白く緊張感を持続させる役割を担っている。教室でのシーンが中心の前半と、教室から離れた後半では、やや質が異なる印象をうけるものの、一気に終わりまで加速する作品は見応えある。考えるべきことがいろいろあるように思える作品。