東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ぼんやりとした身体』

tokyomoon2010-10-22

先日、四ッ谷駅の改札前のnewdaysという駅中のコンビニ前で、部活帰り風の女子校生3人が雑談をしながら立っていた。そのうちの1人が「急がなくちゃ」とそれほど慌てたそぶりもなく言葉にし、それに続いて他の2人も「そうだよね」といいながら、だけど誰もその場を離れないばかりか、1人がふらりとコンビニに入り、なにやら物色しはじめて、それを他の2人がぼんやりと眺める、という光景があり、それがやけに印象に残った。発せられる言葉と無関係にぼんやりと立っている3つの身体がそこにあるようだった。


嫁氏が山形から帰ってきて以来、諸々の節約もかねて昼は弁当生活になっている。それまで職場近くのお店等にフラフラとでかけていたけれど、今は職場の共有スペースで弁当を広げる生活。それで、その時間に溜め込んでいたDVDを見ようと思い立ち、とりあえず河瀬直美さんの『萌の朱雀』を久しぶりに観る。

家族で野山を歩くシーンに、不意に風鈴の音が入ってくる。台詞などの音量自体、かなり抑えたレベルになっている中で、その風鈴の音は少し強調して聞こえてくるのだけど、場面としては風鈴が入ってくるのはおかしい。すると次のCUTで微速度で動く雲の画が入り、次の場面から時間が10数年飛ぶ。映画のラスト、祖母のつぶやくような歌から眠りにつく(こと切れる)、とても時間をかけた1カットのシーンで、祖母の顔のヨリになったところで、それまで聞こえていた虫の声などの音が一切無くなり、次第にカメラが上にあがり、屋根を超え、遠くの山々を臨む様なアングルになったところで、再び風鈴の音が聞こえる。そこで再び、時間が飛び、今度は過去に戻り、そこで幼い頃の主人公の声が聞こえて物語は閉じられる。具体的な風鈴の音が時間を超えるきっかけになるというよりは、風鈴を動かす風が、その世界では時間を動かすものとしてあるように感じられた。


夕食をとった後、娘を抱っこしながらぼんやりしていると、眠くなってしまい、「眠いなら、娘子を布団にねかせて」と言われ、布団に寝かせたら、そのまま自分も眠くなってしまい一緒に寝てしまった。やはり、どうもふっと眠りこんでしまう。