東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『トポス新宿再考』

快晴でスバラシイ。風が吹くと寒いけど。


諸々あって、以前作った『東京の果て』という芝居の映像を見返す。埼玉のある町から新宿にやって来た若者2人、その周辺を通り過ぎていく人の話。改めて見返して、すごくストレートに台詞を書いていたなぁと思う。ただ、個人的にそういう風に表現するしか術もなかったし、そういう作品にしようと意識して作った節もあった。
改めて見直せばいろいろ思うこともあるけれど、一番に思うことはなぜ僕はあれほど新宿に固執していたのだろうかということ。『東京』を考えた時に、作品としての軸となるトポスは新宿だと思っていた。池袋でも渋谷でもなく。ましてや秋葉原などは考えもしなかった。じゃあ、今、もし同じ様な作品を作ろうとした場合、新宿をそういう土地として配置するかというと、多分、それは無いなぁと思う。あくまで今の立ち位置から振り返れば、『東京の果て』を作った当時(2006年)の新宿と今の新宿は違っている印象がある。「時間は過ぎるからねぇ」的なことではなくて、何かもっと違いものとして。うまく言葉にはできないけれど。劇的に何かが変わったかといえばそうではないだろうし、残っているものは残っており、失われたものは失われて、今の新宿は在るのだろうけれど。じゃあそういうトポスとしての場所が別に移ったのかといえば、そうとも思えない。渋谷も秋葉原も違うような気がする。というか、多分、そういう突出した場所というものが消失し、分散して東京に点在しているようにも思う。

そんなこんなで『東京の果て』を見返して、個人的にこれほど出演者の人たちやスタッフの方々に支えられて作ったものは無いなぁと思いつつ、すこしばかり過去を振り返ってしまった。


たまたま昨日、仕事で秋葉原に行く用事があって電気街口を降りたのだけど、賑やかな通りに行くのが煩わしく思えて、JR高架下を御徒町方面に歩いていると、とても興味深い一角を見つける。『2k540』。それが、まさに本日からオープンということで、昨日は最後の準備で忙しそうだった。面白そうなので、今度行ってみたい。
どのような形であれ、あらゆる土地は日々更新されていく。それが、やがてその街になっていくわけで、「この土地はこうだ」と決めつけるのは無意味と思う・・・一方で、きっとその土地にはその土地だからこそ成り立つ地力のようなものが絶対あり、それを意識せずに上から蓋をしたような何かによって更新されていくとそれは単純に「面白くない」としか言いようがなく、だからどんな土地であるかをまったく考えないようにして置かれる「ショッピングモール」は面白くないけれど、今、そういった暴力的な勢いで上から蓋をするような都市計画ばかりが進行しているような気がして、それはいよいよつまらんなぁとも思いつつ。


(追記)
とはいえ、新宿が物語のトポスにまったくなり得ないのかといえばそういうわけではなく。おそらくかつての何かを象徴するような土地としての新宿ではなくなり、ある種形骸化された繁華街として存在していると思え、これもすごくたまたまながら、ちょうど読み進めている保坂和志さんの『途方に暮れて、人生論』の言葉

かつて都市の核たりえたかもしれないが、今では都市自身がその存在をもてあましてしまっているだろう繁華街には、根拠を欠いた視線だけがあって、その視線を持ったり、それに見られたりすることが、自分の存在証明だと錯覚している人たちだけを呼び寄せているのではないか・・・。

を読んで、まさに今、新宿や渋谷に通う人たちはそのような人たちが多いのではないかとも思える。そのような場所として新宿を、芝居のトポスとして敷くことこそが今の新宿との向き合い方なのかなぁと思いつつも、ではそれはどのような芝居かと言われると・・・。だからこそ、まさにタイムリーに松田正隆さんが試みるワークショップによるパフォーマンス『都市日記-shinjyuku』は是非とも観たい。