東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『区の施設で遊ぶ』

昨日の雪は、夜のうちはずいぶんと降っている印象だった。朝になると空がすっかり晴れていて、道路も少し氷が張っているだけ。まぁ東京の雪といえばこんなものかと思う。娘子は、山形でも雪は経験しているので慣れているが、凍った路面を踏む感触が楽しいようでバリバリと音を立てて歩く。こっちはこけそうでヒヤヒヤする。


ここ最近、雨やら雪やらでさすがに公園などは寒かったり遊具が濡れていて遊べない。で、鬼子母神の近くに区の施設があることを知っていたので初めてそこに行ってみることに。簡単な登録で、すぐに幼児が遊べるルームへ入れる。どこの区や市にもあるのだろうけれどこういう場所はとても有難い。なにせ、同じくらいの年齢の子供たちと一緒に遊べるのは家では絶対に無理なので。


最初はルーム内のおもちゃで一人遊んでいたが、次第に他の子が遊んでいることに興味がいき、やがては他の子が遊んでいるおもちゃを奪うようになる。まだ「貸して」が理解できないので、娘子にとっては自然の行動なのだけど、当然取られた子はたまったものではない。抵抗してくる。そうすると娘子はどうするのかと思ったら

無理に奪った

慌てて娘子をその子から離す。それでおもちゃも返そうとすると嫌がる。で、その子が「返して」と叫ぶと余計に暴れる。まぁ、それも今はまだ自然というか、もちろん良くないことなのできちんと教えねばならないのだけど、いずれにしても身内以外の他者と接することの全ては経験として彼女の身になる。


それで午前中は思いっきり遊んで帰宅。さすがにすぐに昼寝をする。


で、私は娘子が寝ている隙に小栗康平監督の『埋もれ木』を観る。久しぶりに見返す。作り物とかそうでないとかそんなことはどうだっていいと改めて思う。この映画の7割以上はセットを組んで撮影されたというが、映画はどうやったって作り物である。そこにカメラを構える以上、作為が無いことはない。カメラに作為がなかったとしてもそれを切り取る編集で意図が出現する。一本の動画になる段階で、作為のない画など一コマもない。作為は、現実以上の悦びを映像に出現させるためのモノとしてある。『埋もれ木』を観ると、想像することの豊かさがあふれていて、こちらの範疇を超えた画にしばしば圧倒される。豊穣な映像体験。
改めて観て気付いたことは、この映画は地方の町の話だけれど方言のようなものがない。地方だから方言が必要ってことではなく、この作品において実は特定の何かを指し示すモノは排除されているような気がする。回り舞台や曳家といった現実の日本の技術も劇中に出てくるけれど、それらはその動き自体の魅力から撮影されていて、日本古来の伝統とかそういった類の紹介ではない。日本ではあるのだろうけれど、日本と特定してない。セカイに存在するものから、魅力的なものだけを切り取っているように思える。