東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『曳舟で幽霊をみた』

午前中に娘子を連れて散歩。近所の寺の周りを歩いてから区の施設へ。

そこに置いてあるおもちゃでままごと遊びをする娘子。皿や鍋を出しつつ、コップを2つ出す。何をするかと思いきや「おとー、こーひー、こーひー」とそのコップをくれる。僕と嫁氏がいつもコーヒーを飲んでいるのを見ていてそれをままごとでも覚えてやってくれた。なんと親バカにさせてくれる娘子か。


昼食後、昼寝をした娘子を嫁氏に任せて、曳舟へ。


松田正隆さんのマレビトの会のパフォーマンス マレビトライブ東京編『N市民 稲光は東京スカイツリーに兄のファルスを見た 上演4』を観に行く。週末にすでに3回の上演がありそれは観に行けなかったのだけど、せめて一目だけでもと嫁氏に頼み込む。平日16時からの上演に奇跡的(無職だから)に参加できた、ワタシ。

すでに京都でも何度も行われている『N市』という架空の町の出来事を、劇場ではなく実際の町の様々な場所で上演発表していくシリーズの東京編。

曳舟にある商店街とその周辺4箇所で、時間毎に各場所の上映スケジュールが決まっており、事前にホームページ上にアップされている地図とタイムスケジュール、そしてテキストを見てどの演目をどの順番で観るかを観客それぞれが選ぶ。場合によって上映スケジュールは各地で重なっていて必然的にどれかを選びどれかを諦めなければならない。

上演の1時間ほど前に曳舟に着き、公演場所周辺を散策。というか、ある程度、廻るルートを決めておく。というのも各地の上演スケジュールがモノによって5分ほどの間しかないところもあり、道に迷うと見逃すはめになるから(まぁ、それはそれで面白いのかもしれないけれど)。

曳舟の商店街は雑司ヶ谷とは雰囲気が少し違う。平日の夕方ということもあってかとても穏やかな時間が流れている。入り組んだ路地を歩いていると面白い。

こういった上演形態の場合、芝居は観客である僕らを待たずに時間通り始まる。観客は決められた時間に指定された場所に自ら移動しなければならない。これが劇場で行われる演劇と決定的に異なる。さらに上演される場所はお店は誰かの家、公園などであり、すぐ目の前を通る明治通りの車の走行音や通りを歩く人の声、家の構造、さらに公園で遊ぶ子供達など、すべてがパフォーマンスと等価で存在する。
まぎれも無く、そこには2012年2月1日の、まさにその時間が流れていて、僕らはその『時』その『場所』で、登場人物である『個』の生きる時間の目撃者になる。


役者は舞台としてのヒキフネでありつつ、実際の町である曳舟にいる。その時間を共有する僕らも実際の曳舟の町を歩く。おそらくその場所に暮らす多くの人たちはこの日、まさか自分たちのすぐ隣でパフォーマンスが演じられていたなんて知らぬままに過ごしたのだろう。
それが人の生なのだと思う。僕だって、すぐ隣を歩く人がどういう生活を過ごしているかなど知る由もなく、自分の生をいきる。それが劇世界かどうかは抜きにして、登場人物たちの生もまた、実際の人々と等価に、その場所にある。


それで、僕自身が発見したこと。
劇中に、主人公の兄の幽霊が登場する。当然、役者が幽霊役を演じる。その幽霊は、劇中では主人公にしか見えない設定になっている。観客である僕にはその幽霊は見えている。当然。劇中では、劇中の設定に則って幽霊が見えている。で、一つの場所でのパフォーマンスが終り、僕らが次の場所へ移動するように役者であるところのN市の市民たちも移動する。幽霊であるその役者も商店街を歩く。
この時、幽霊は町の人たちには、現実的には見えているけれど実は見えていない。つまり視界に入っているけれど、それは『見ている』とは異なり、ただ通り過ぎただけ。通り過ぎるだけの関係では、彼らの時間に介入していない。実際、町行く人たちは誰も彼を幽霊だとは思わない。ただ、僕らは彼を幽霊と知っている。幽霊は、確かにそこにいて、僕はそれを幽霊と認識して見ているけれど、他の人たちには彼がそんな人だとは思わないから気付かない。そもそも、『誰も彼を見ていない』。そして、人に見えないその幽霊を僕は見ている。

あ、幽霊ってこういうことなんだ、と身をもって体験した。

この発見はちょっととてつもない。
冗談ではなくて、本当にそう思う。
本当に貴重な体験だった。

で、パフォーマンスをした場所の魅力的なこと。スカイツリーの見晴らしもとても良かった。

諸々の事情で、18時過ぎに帰路についてしまい、パフォーマンスとしては全体の半分を観たに過ぎない。残念だったけど仕方なし。でも本当に刺激的だった。


帰ったら、履歴書を送ったとある会社から不採用の連絡が届く。うーん、書類で落とされたか。一気に現実に引き戻された。