東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『九月、東京の路上で』

tokyomoon2014-09-01

やたらと雨が降るし天気が悪い日が続く。いずれは暑さもぶり返すだろうと思いつつも、このまま秋になだれ込むのかしらとも思わせるような涼しさ。まだ9月1日になったばかりだというのに。


30日(土)。目が覚めたら右肩から首のあたりがやけに痛い。思い返すと一昨日つまり28日(木)にやたらと重い荷物をずっと右手で持っていて、それが1日おいて筋肉痛になったものと思われる。歳だな。重いものを持ってたってだけで筋肉痛になるのもショックだけど、それを飲み込んだとして、筋肉痛が普通に1日置いてやってきたことがショックだ。身体よ、あの酷使した直後には「これはくるね、筋肉痛」と思えた頃のあの反応の良さはどこへいってしまわれた。そしてその痛みは今も続き、直りの悪さにも愕然としている。


31日(日)は早朝から仕事。久しぶりに有楽町に出かける。ゆえあって国際フォーラムの中をうろついたのだけど、でかくて見上げているだけで飽きない。フリースペースのベンチに座っていると、おそらく路上生活者の方と思われる方が歩いて、近くのベンチに座った。誰もそれをとがめることはできないし、とがめる所以もない。ただ、その空間に若干の緊張が走る。とてつもなくキレイにされている国際フォーラム。そこにある絵空事と現実。


仕事のあと、少しばかり時間ができたので、日本橋の方へ散歩。日本橋三越など建物を見るだけでも愉しい。あと久しぶりに銀座方面を歩いたけれど、この碁盤の目状の街構造は新鮮だなぁと思う。そして初めて行ったCORED室町内にあるシネコンで映画を一本鑑賞。『トランスフォーマー』。3Dしか観れなかったので仕方なく3Dで観たけど、いろいろ、うーん。やはり3Dは観づらい。暗いのもあるけど、トランスフォーマーが3Dとしては観づらい。そして作品自体もどうにもこうにも。いろいろな設定が綱渡り的に話をつないでいくのだけど、それがあまりにも綱渡りな印象。ど頭の恐竜たちの絶滅描写とか、有機物を金属に変える的なアレは一体なんだったのだろう。あとオプティマスプライムの発見のされ方とか、主人公の発明家的な人がいきなり、トランスフォーマーたちを直すという設定も。治せないだろ、何も出来ない町の自称発明家では。さらにその数分後に、新品の車をスキャンして自ら治してしまったり。治せるのかよ、自分で、と。であれ?おかしいぞって気になりそうになると爆破やら戦闘シーン突入。お腹いっぱいにはなるけれど、トンカツからハンバーグ、で締めにステーキというようなコースで自分にはトゥーマッチでした。


その後、東京駅で嫁と娘と猫を迎える。しばらくぶりに戻ってきた。娘の目が腫れていた。なんでも帰りたくないと泣きじゃくったらしい。待つ父の立場は?と少しばかりショックだったけど、居心地がよかったのだろう。帰宅後、嫁と娘、リフォームした家を見て、ほうほうと言っていた。家具を全て片付けていたから、ここから改めて家具をレイアウトしていく作業が始まるが、それは嫁の独壇場。嫁のメガネが光ったね。まぁ、家事等全般をする人が使いやすいように配置していくのが良い。


で、9月1日だからというわけではないけれど、たまたま加藤直樹さんという方が書いた『九月、東京の路上で』という本の存在を知る。購入して読んでいる。関東大震災時、混乱の中で、日本人の手によって殺された朝鮮人の方、中国人の方がいた。そういった出来事があったことは歴史の中の知識として知っていたけれど、具体的なことは知らなかった。まだ全部を読んでないけれど、東京で起きたそれらの悲劇についてまとめたこの本を読んで身につまされている。何より、この著者の方々は、新大久保であったヘイトスピーチをきっかけにこの本を書こうと思ったという。数々の資料を調べて、当時の出来事の書かれた文献を引用している。実際に出来事を目の当たりにした方々の証言が引用されている。それを読むとここに書かれていることが、今からも起こりえる可能性があるような怖ささえ感じる。この本に紹介された言葉も、無数にある出来事を語る一つの言葉に過ぎないと言われればそうかもしれない。一つの出来事でさえ、見た人によって捉え方が違うだろう。まとめ方によっても見え方は変わるかもしれないし、そういう点でこの本に対して偏った情報のみを掲載していると批判をする向きもあるようだけど、点のような一つ一つを言葉の集積からしか物事はわからないのではないんじゃないかと思う。たまたま同時期に読んだ高橋源一郎さんのTwitterのつぶやきの言葉は重い。

今日は、月に一度の朝日新聞論壇時評の日です。今回は「戦争と慰安婦」と題して、いままた論議を呼んでいる「慰安婦問題」について書きました。
C・イーストウッドの映画「父親たちの星条旗」の冒頭には、「ほんとうに戦争を知っているものは、戦争について語ろうとしない」という意味のことばが流れ ます。深く知っているはずのないことについて大声でしゃべる人間には気をつけたい、とぼくは思ってきました。もちろん、ぼく自身についてもです。
慰安婦問題」でも、ある人たちは、「慰安婦」は「強制連行」され「性的な奴隷」にされた、と主張し、またある人たちは、「いや、あれは単なる娼婦で、自発 的に志願して、かの地にわたり、大儲けしたのだ」と言います。けれど、朴裕河さんのいうように、どちらの場合もあった、というべきでしょう。
そして、その間には無限のグラデーションがあり、「性的な奴隷」に見える中に日々の喜びもあり、また逆に、「自発的な娼婦」に見える中に、耐えられないほ どの苦しみもあったはずです。けれど、この問題をめぐる議論は、お互いに「見たいもの」しか見ないことで不毛になっていったように思います。
とりわけ、「戦争を知らない」世代が、紙の「資料」をもとにして、なんでも知っているかのように論じる姿に、ぼくは強い違和を感じてきました。実際に「戦争を知っている」世代は、そんな風な語り方は決してしなかったからです。
戦争中、多くの作家たちだが、兵士として戦場に旅立ちました。そして生き残ったものたちは、帰国して後、戦場で見たものを小説に書き記しました。そこに は、「慰安婦」たちの生々しい姿も刻みつけられています。有馬頼義長谷川四郎富士正晴伊藤桂一田村泰次郎古山高麗雄、等々。
彼らは見たものを書きました。頻発する強姦、民間人・農民の無差別虐殺、狂気に陥る兵士、自分が何をされるかわからないまま連れて来られた慰安婦たち。け れども、彼らは「わたしは知っている」とは書きませんでした。「わたしが見たのはそれだけだ。他のことはわからない」と書いたのです。
古山高麗雄は、数多くの戦争小説を書き、その中で繰り返し、慰安婦を登場させました。けれど、彼は、戦場では慰安所に行こうとはしませんでした。「慰安婦 は、殺人の褒賞であること」を知っていたからです。戦後しばらくたって「慰安婦問題」が大きく取り上げられるようになって、彼はこう書きました。
「彼女は…生きているとしたら…どんなことを考えているのだろうか。彼女たちの被害を償えと叫ぶ正義の団体に対しては、どのように思っているのだろうか。 そんな、わかりようもないことを、ときに、ふと想像してみる。そして、そのたびに、とてもとても想像の及ばぬことだと、思うのである」
誰よりも、彼女たちの心に近かった古山でさえ、「想像の及ばぬことだ」というのだとしたら、遥か遠く、「戦争を知らない」ぼくたちは、もっと謙虚になるべきなのかもしれません。そんなことを書いてみました。ご笑覧くだされば幸いです。

知らないところからスタートしている自分ができることは、まずは知るということ。そのために読まねばならないと思う。耳を傾けなければならないと思う。