東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『運転三昧』

tokyomoon2015-11-06

車で移動する用件が多いこの頃で、クルマの運転をする日々。最近の秋晴れが運転するには気持ち良いし、久しく聞いていなかったCDなどを取り出して音楽をかけながら運転すると、それだけで楽しい。大学の頃はなんだかいつも車で出かけて、その時には必ずテープを再生して音楽を流していた。あの頃の音楽が今も自分の下地を作っているような気がするけれど、本当はもっと日々その下地に新しいモノを入れていきたいと思うのだけど、なかなかそうもいかない。目的地に向かう時には快晴で気持ちの良い運転をして、帰りは日が暮れていくなかを走る。山々の稜線がはっきりと見える季節になって、その稜線の向こうに日が沈んでいくのを見ているとなんだかシミジミとするけれど、すぐに都内へ向かうクルマの渋滞で現実に引き戻される。


なぜかここ数日、娘がかつて飼っていて今はもういない飼い猫のことを話す。会ったことはない、けだま、と名付けられた猫に会いたかったという。娘が生まれる前に亡くなってしまった猫に会いたかった、と言うその娘の、そう言いながら悲しそうな表情を浮かべるその心持ちについて考える。1度でもあって思い入れがあれば喪失の悲しみの感情があることはわかるのだけれど、では話だけを聞き、その話を自分の体内に通してそこから会いたかったと願う、その、あらかじめ失われてしまったものへの思いというのはなんだろうと思う。


それとは別に、現在我が家に3匹いる子猫たちの暴れっぷりが引き続き尋常じゃない。本やCDを撒き散らし、机から書類を落とし、ハンガーラックから洋服を引き摺り下ろしてはそこに匂い付けをかます。所狭しと部屋中を駆け回る。呆然として事後処理をするばかり。元気な猫たちよ。



仕事のご縁でとある作品の試写を拝見し、いろいろ考える。何かしらのベタさというものがあるとすると、映像作品においてそのベタさを用いることも時としては方法の一つなのかもしれないと思うけれど、それを衒いもなく使うやり方が良いのかどうかと悩む。脚本の段階、演出の段階、編集の段階、細かく言えばもっといくつもの段階を経て、それでも採択されて一つの作品としてスクリーンに投影されるわけだから、そこに映されているものが、作り手側の正解として提示されていることは分かりつつ、そのベタさを肯定していいのかと思うと悩むばかり。