東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『その下の無数の僕たち』

先週は仕事でとある地方に行っていた。かつて3週間ほどかけて車で旅をした時、そこを通り過ぎたことはあったけど、立ち止まるのは初めてだった。駅前は他の都市と変わらず賑やかだけど、車で少し離れたらのどかな海と山がある。山と海に挟まれるように家々が立ち並ぶ。地形に合わせて集落が作られて、その延長上に今があるように思える。


梅雨時ということもあったし、その土地柄なのか強い雨が降ったかと思えば、パタッとやみ、太陽が現れると急に日差しが強くなる。日中も気温が高くなってもカラッとした暑さで日陰に入ると心地よく感じるし、夜になると肌寒く思えてくる。海は穏やかで、漁師船や大きな貨物船が渡っていくのをしばしの間眺めたりできると、それはそれで落ち着く。時間の感覚が東京とは異なる気にさせる。


風の音、潮の匂い、木々の匂い、山から海に流れる水の音、鳥の鳴き声。仕事は休みもなくあったので落ち着く時間はあまりなかったけど、それでもホッとすることができた。


仕事に関して言えば、大好きな黒田硫黄さんの短編連作『茄子』の一篇『39人』や沖田修一監督の『キツツキと雨』を彷彿とさせるというか、映像というモノを作るには多くの人が関わり、1人の力だけでモノが作られるということは不可能なのだと思わせる。それが商業的な枠組みなら尚更。ただ、そこでしか作れないものがある。でも、逆にそういうところでは作れないものも、多分、ある。いや、ある。


その町で、お孫さんを連れて歩く老人を見た。このご老人はこの町で生まれ、働き、そして今に至るのか。その途中、子供たちが結婚し、孫が生まれ、共に生活をしているのだろうか。僕にしかない日々の諸々があるように、その人にはその人にしかない日々があって、たまたま僕はその、本当にわずかな、その老人にとっては思い出にさえならないような日常のたわいもない散歩の一つに遭遇し、すれ違い、おそらく、いや、ほぼ確実に、もう二度と会うこともないのだろうと思うと不思議な気分になる。


東京に戻ってくると、蒸し暑かった。見上げればその土地で見たようにまんまるの月。どこから見ても月は月なのだろうけど、その下にいる無数の人たちの生活は本当に様々なのだなぁと改めて思う。