東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『盆の国』

13日(火)。午前中に眼科へ。コンタクトを購入するため。視力が少し落ちているようだった。コンタクト屋の店員さんから「消費税が上がる前にまとめ買いがお得ですよ」と提案を受ける。まとめ買いね。こちとら、増税反対の意向で投票も現政権ではないところに入れている身ですよ。もちろん、だからって増税を拒むことはできないけれども。なんというか、まったく気が滅入る提案だなぁ。来月にはそういう商法がもっと増えるんだろうなぁ。気が滅入る気が滅入る。

そして、台風が近づいているせいか、とてつもなく蒸し暑い。が、雲がすごい勢いで動いているので、それを眺めるのは面白い。

14日(水)。いろいろ出歩く一日。今日も風が強い。仕事で、芝公園あたりに行き、そのまま少し歩いた。東京タワーとすごい速度で流れる雲の見晴らしがいい。雲を見ながら歩くのが楽しい。

 知り合いから、スケラッコさんの『盆の国』という漫画を教えてもらう。少し調べると、とても興味深い。『盆の国』の公式サイトに寄稿されている畑中章宏さんのエッセイも興味深い。(http://to-ti.in/story/bon_kikou

 おそらく自分が、お盆も関係なく働いているからなのだけど、なんだか、お盆はお盆できちんとあるべきだなぁと思っていた矢先に、この本を教えてもらってなんだか不思議な気持ちになる。で、本を読むと、主人公は不思議な耳鳴りがして、耳鳴りが起きると、かつて生きていて、今は死んでしまった人や動物たちが見えるようになる。お盆にこちらに戻ってきた彼らの姿を、この世で見えるようになる。僕はそういう霊感みたいなものを感じることが無いのだけど、今年、すこしだけ不思議なことがあった。家で飼っている猫について少し知り合いに話したとき、「これは、けだまという猫で」と以前飼っていて亡くなってしまった猫のことを口にしていたこと。無意識で。しかも別の猫を、なぜか、けだま、と以前に飼っていた猫のその名前で話をしていた。少し経ってから、あれ、違う、その猫、名前は違う、となったのだけど、なぜ、この時だけ、その猫を言い間違いしたのか、とても不思議だった。けだまは、以前にうちで飼っていた猫だ。とても利口でしっかりしていた雌猫だった。家猫だったけど、外へ出ようとする意識は強く、玄関をあけると元気に飛び出していく子だった。ある日、いつの間にか外に出ていて、路上で亡くなっていた。

 いろいろな本や考えに触れた結果、死に対して自分なりに考えていることがある。僕の考えは、死んでしまったら、やっぱり存在としては、無になると思っている。死という思想も、身体の死と同時に死ぬ。それでも、残された者が覚えている限りは、死者は残る。多分、お盆の考え方も、映画『リメンバー・ミー』のような考え方も、たぶん、そういうことに基づいている。残っている者が、覚えていれば、死者は死なない。だから、お盆があるし、祈りがあるのだと思う。

 この日も、夜、満月が大きかった。

 15日(木)。目が覚めると朝8時を過ぎていて、少しばかり寝坊。ゴミ出しなど諸々する。で、少し嫁さんや娘に対して怒りをぶつけてしまった。うーむ。そういうのは良くないとは思いつつ、だめだな、とはわかっているのだけれども。

 この日も雲がすごい速度で流れていき、急に強い雨が降ったと思ったら、あっという間にうだるような暑さになったりと、不思議な天気。直撃を避けることができた東京でさえそんな天気なのだから、直撃をしている地域は本当に大変なのだろうなぁと思う。

 『盆の国』を改めて読む。死を受け入れる受け入れないは、きっと誰もがぶつかる問題。それは漫画の自由度の中では、死んでしまった本人の視点からも描ける。もう二度と会えない。二度と元には戻れない。この不可逆さにふんぎりをつけることはとてつもなくしんどいことだ。作中でもその辛さがたくさん描かれる。お盆は、その辛さにふんぎりをつけるためのものとして存在する。そして最後には8月16日が訪れる。15日との決別。死者との別れ。だけど、それは繰り返しだけど、あくまで区切りとしての。残された側が覚えていれば、死者は消えない。

夜。風がますます強くなる。台風が通り過ぎているのだろう。ざわざわとした夜。

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