東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『論文を読んだり』

朝、少し早く目が覚めるけれど、まだ眠く、ゴロゴロとする。少し寒い。2か月ぶりくらいにタオルケットをかけて寝ていた。何もかけなかったら風邪ひきそうな涼しさ。で、なぜか背中が筋肉痛。なぜだ。

もたもたと起きて、御飯を食べる。娘も土曜だが学校へ行くという。何か映画を観る授業があるという。

やや小雨がぱらついていたけれど、午後から晴れるというので、傘は持たずに出かける。

仕事諸々。粛々と作業をするが、まだ手続き関係の書類に手が付けられない。ここ最近、老いてきたのか、集中力があまり続かない。特に、今日に関しては、背中の筋肉痛がどうにもこうにも。

仕事を終えてから、喫茶店へ。「略称・連続射殺魔」に関して、どなたかが書かれた論文がWEB上で拝見できた
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/109/0/109_010905/_pdf)。恥ずかしながら「風景論」自体をそもそも知らずに先日の東京都写真美術館の展示を観に行き、「略称・連続射殺魔」を観る機会を得て、気になっていたところに、この論文を拝見できたのは有難いが、それにしても、ここに記載されているように、均質化された風景が高度成長期に政治的に作られた権力の象徴のように語られるのは理解できるとして、「風景を切り裂くために、弾丸を発射した」として永山則夫を風景=権力に対する革命者として示すっていうのは、すごい考え方だとは思う。

とはいえ、さらにその先へ読み進めていくと、人物は登場しない映画でありながらも、生い立ちから、犯行を行うまでの場所を順を追って辿る進め方は、物語映画の進行であると捉え、風景を見せるための親切な画作りではなく、作為のあるカメラワークは、作り手側の意図もしっかり現していることを指摘している。カット割りについての言及も興味深いし、何より

そこから喚起されるのは、美しく調和的な世界から自身だけが疎外される印象であり、制度的な権力よりもむしろ個人の内向的な精神に由来するような、より普遍的な孤独感と閉塞感である。

という言葉にこそ、生きづらさの中で、日本中を彷徨った男の姿を思わせる。

時間はいくらあっても足りないと思えてしまう。帰り道、地元の神社が例大祭を行っていた。まだやや暑いもののすっかり涼しくなってきた。ここまではっきり夏が終わる感じがするのも珍しい。帰宅して筋トレ。のんびりの夜。