東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『泥の河』

朝、仕事で新宿区のとある場所へ。雨が降っていて肌寒い。こういう日に限って出先で仕事というのもついていない。一つ目の仕事を終えて、地下鉄で新宿へ。小田急に乗り換えて二つ目の仕事へ。と、途中でlineが来て、約束していた相手が体調不良で来れないとのこと。脱力。もちろん、体調不良は仕方がないが、その人に合わせて、時間を調整したのに。とはいえ、そうはいっても、である。諸々終えて、雨の中、事務所へ戻る。

で、そのあと、いくつか仕事をしてから、今度は車に乗って仕事。雨は止まず。なんやかんや、ずっと外をうろうろした一日。

帰宅してから、小栗康平監督の「泥の河」を久しぶりに観返す。戦争から生きて帰ってきたものの、毎日を必死に生きていくしかない生活を続ける家族。食堂をきりもりするが、その日暮らしの生活に、苦しさを感じる父親。そこに現れる水上生活の船。母1人、子2人の船上暮らし。父親を亡くし、母が船の上で身体を売る仕事をして子供を養っている。戦後の大阪を舞台の小説の映画化。60年前にあった現実。子供たちは、その事実をじっと見る。目の前の現実を直視しつつ、受け入れるしかない、その現実を前に、ただ、立ち尽くす。不慮の事故や、病気。戦争を生き延びても、そうやって野垂れ死にしてしまうことを、大人は憂いてぼやけるが、子供は何も言えない。ただ、そういう大人をじっと見る。

食堂の息子と、船上暮らしの少年は、友情を育むけれど、祭りの夜、お小遣いをもらって祭りを楽しもうとでかけたのに、お金を落として何も買えず、帰宅した船の上で、船上暮らしの少年が「面白いことをみせる」と、蟹に油をまぶして火をつけるという行為を行う。食堂の息子はそれを止めさせようとする。火のついた蟹を追おうと船のヘリを歩いていると、船の先端の空間を改造して寝具をいれた部屋で男を招き入れていた船上の少年の母親と目が合う。食堂の息子はそれで、無言で船を離れる。

何か都合のいい言葉を並べれば、少年たちの決別に意味を付すことはできるのかもしれない。いくつかの積み重ねによって生じた結果かもしれないが、そこに理由付けをすることにさしたる意味はない。

ただ、そこに暮らし、やりとりを交わした少年たちがいて、出会いがあり、別れがあり、観客はその一部始終をただ目撃するだけだ。