東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

夜を盗む

映像の編集はほぼ終わった。
あとは少し雑になっている音楽や映像のつなぎ目の手直しをするくらい。

昨日の夜に、ためしに一度パソコンからビデオに入れてみたら、まぁ形になっていた。
それにしても合計23分くらいになったのは、ある程度予想していた尺ではあったのだけれども、23分の映像をムービー保存するのに56分かかった。

僕の持っているパソコンでは限界を超していたのだろう。
金曜日にOの家に音楽を取り込んでもらうために訪れた際に、すこしパソコンを見てもらった。Oによると、そもそも僕のパソコンの容量ではムービーメーカ2.0は重過ぎるのだという。Oの例えが面白かった。

「つまり畜大の管理学科にしか行けないくらいの脳の持ち主が、なぜか東大行っちゃって、それで授業についていくのいっぱいいっぱいみたいなとこです。」

ははぁ、なるほど。それは分かりやすい例えだ。
あれだけやる気あったのに、もう昨日や一昨日は編集に飽きている自分がいた。飽きた大半の理由は、限界に達しているパソコンに気を使いながら、作業を繰り返すからで、技術面に限定要因があることが非常にまどろっこしい。こうなるともうハードの方をレベルアップするしかない。だけど、じゃあそんなに映像に興味あるかといわれると、そうでもない。欲望は無尽蔵だ。映像の色合いにしても、音の調節にしても、微妙な編集にしても、こだわろうと思えばこだわろうと思うだけ、より高度な技術が必要で、だけどその技術は当面お金によってでしか得ることができない。もっとこだわるなら違うとこかな。それは結局作品の物語や、その作中に生きる人物のふと垣間見える生の瞬間を捉えた映像をとることとかか。技術にこだわりすぎるとその辺をおろそかにしてしまいそうな自分がいる。だけど、まぁそういうものを撮れたとして、それを作品にするとなると、やはり今以上に立派な編集ソフトがいるのだろう。

そう考えてると演劇とは、まぁ金がかからない。ある一面では。編集とか必要ないから。そのぶん舞台を作りこむ必要はあるのだろうけれども、もうちょっとだけ作品側の視点、つまり書き手の立場から挑みやすいかな。

まぁ映像は楽しいけれども、いかんせん技術面にあまり興味が持てず、だ。それでももう少し丁寧に最後の詰めを行う。Oの作っている予告編はいろんなバージョンがあった。いろいろ作っていて、そのうち予告編だけで本編を越す尺になるんじゃなかろうか。本編より長い予告編とは。それにしても音楽や編集でずいぶん変わるな。映像って。Oの作った作品と俺の作品は同じ映像素材を使っているのに、まったく別の作品だ。

そういうわけで、リーディング公演の台本はちっともすすんでいない。映像に気をとられ過ぎていて集中できない。なにせ時間が無かったから。今月の31日には渡さないと駄目だし。

だけどタイトルだけ決めた。『夜を盗む』だ。
銀座のギャラリーを一緒に下見に行ったIさんが、その夜になぜかテンションが高く、「松瀬君、夜はいいよね。」とご機嫌に言ってきた。何があったのかよく分からないんだけれども、テンションあがりっぱなしのIさんは続けて「なんか、夜を歩いているとさ、夜を盗んでるみたいな気持ちになるよな、うん、そうだろ?」と言った。それ自体は正直、何を言っているのか分からなかったのだけれども、その『夜を盗む』というフレーズがずっと心に残っていた。で、自分でもいろいろタイトルを考えてみたんだけど、やっぱりいいのが浮かばず、それを使わせて貰いたい旨をIさんにメール。Iさんは快諾してくれた。

内容は大体決めている。あとは書き方だ。つまり方法。手段。そのために中上健次を読む。最近は宮沢章夫さんの「秋人の不在」に夢中だった。まったく面白い。前にも書いたけど、この作品の主人公である秋人は焦点であるものの、一度も表舞台に出てこない。描かれるのはその周りの人物達の姿だ。やはりこういうスタイルがポストモダンなのだろうか。つまり「重層的な非中心」中心は、その存在がそうしてされているが、その周りにはあらゆるものが積み重なり層をなしている。そこにこそ、見える『イマ』があるのか。考えてみたら浦沢直樹の「モンスター」もそういう作りだ。焦点であるモンスター、ヨハンは表舞台に出てこない。出てくるのは彼の周りにいる人物達だ。ヨハンに関わった彼らの生き様を描いているのだ。そういう作り方。そういう作品。思想を表現するための手段の思考は続く。

選挙行きませんでした。やっぱりそれは良くないことだ。