東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『言葉を生み出す人々/日本の喜劇人』

■ 東京の今日は、からっと暑くて気持ちのいい夏日だった。昨日の夜に部分的な雨が降ってひんやりしたせいなのか、その雨雲を運んできている低気圧のせいなのか分からないけど、同じくらいの気温でも湿気が少ないとずいぶん違う。まぁそれとは別にアスファルトやビルの窓の反射などによる放射熱とか自動車の排気ガスとかのもやっとした暑さはもちろんあって「じめっ」よりも「もやっ」が提供する暑さっていうのは本当に不快な気分にさせてくれる。東京の暑さは亜熱帯的な暑さになってきているという話をよく聞くけど、こうなってくると「日本の夏」も風情もなにもあったもんじゃない気になる。


小泉純一郎という男はどのような物差しで計るべき人なのだろう。今回の解散の件に関して今朝見ていたテレビでは「非常にでたらめな解散」とかなりおかんむりな意見を言っている方がいた。一方でこの意見を読むとそれもまたなるほどと思える。


■ 今回の件で自民党、ひいては政界図というものに変化が生じるような気もするし、そういう意味で小泉純一郎が投じた一石はいい具合に波紋を立てているようにも思う。


■ ただ、なんだかこの人のやることっていうのは本能の赴くままというか、裏づけとかそういうものに乏しい気がする。郵政にしても靖国にしても公約を貫く姿勢はそれはそれで(なにもしないよりは)いいと思うんだけど、そのために生じる問題に関してこの人はまったくといっていいほど手を打たない。で、反対勢力はどんどん切り捨てていく。こういう世界は少なからぬ「うまさ」が必要だと思うんだけどそういうものを全然感じないわけでして。さきほどの小泉純一郎の行動を擁護している方の意見も、最終的なところで小泉純一郎を創造主にできるのか決めかねてるように感じる部分もそういう小泉純一郎の半ば直感だけで動いているんじゃないかしらという考え(不安)を捨てきれないからではないのか。


■ 今回にしたって、衆議院が解散するおかげで、審議が先送りにされてしまった重要な法案がいっぱいあるわけで、そういうものをないことにして突き進むのはあまりにも一つのことにしか目がいってない感じがする。


■ 「次回の選挙は言うなれば郵政選挙です」とかインタビューに答えてたけど、こうやってまた名前が作られていく(まぁこの言葉が重宝されるかどうかは疑わしいが)。で、メディアがこういう上辺の選挙戦をお祭りごとのように報道して、結局勢力図がどうのこうのだけ騒がれて中味のことはあまり論じられないまま過ぎていく。民主党とかも政権奪取とかいろいろ言ってるけどあんまり党としての方針はよく分からない。前回あんだけ騒がれたマニュフェストっていう言葉は本当に中味のない言葉だった。


■ それにしてもこうやって自ら言葉を生み出しては話題を作る人っていうのが世の中には幾人かいる。目に付くのは長嶋茂雄田村亮子とか。いや、別にそれがどうってわけじゃないけど、日本人ってなんでこんなに一過性の言葉が好きなのかと思う。流行語大賞とかやってるけど、あれなんてそれの最たるもので、その瞬間は大いに騒がれるけど、じゃあ去年の流行語大賞ってなんだったかと言われたらほとんど思い出せない。覚えとく必要もない。結局、重要なのはその言葉それ自体ではなくて、その言葉から生じるお祭り騒ぎなだけで、その言葉によってどう「騒げるか」というような瞬間的な「面白さ」なのだと思う。そういう「騒ぎたい」習性がどうやら日本人にはあるのではないか。ただし、そればかりではひどく軽いことで生れる面白さだと思う。


■ 本をいくつか読み終わる。

島田雅彦『未確認尾行物体』(文春文庫)
小林信彦『日本の喜劇人』(新潮文庫)
どちらもとても面白かった。特に『日本の喜劇人』は戦前・戦後から高度成長期にかけての喜劇人の系譜が詳しく書かれているだけではない面白さがある。


■ 例えばエノケンこと榎本健一さんのことについて書かれたこの文

『この<逃げるエノケン>を、『ちゃっきり金太』(エノケン主演映画*注釈)では、無限の空間に開放してみせた。ここには、映画そのものの魅力が脈打っている。だが、それは、エノケンの体技なしには成立しないものであった。どこまでも逃げてゆくあの小柄な姿なしには、この映画はない。その体技は、まさにthe one and onlyと称するべきものである。』

また、藤山寛美さんについて書かれたこの文

『泣かせる芝居のあとで、笑いでひっくり返すというのは、達者なコメディアンがよく使う手であるが、踊り出す、というところまではいかない。また、かりにやったところで、それはある型のあとに、別な型をもってきたという印象しかあたえまい。そうした型がこわれて、ばらばらになってしまったものが、寛美の動きである。それは生命の躍動から発する自由さというものである。』

著者である小林信彦さんが喜劇役者それぞれを評する言葉は、そのまま役者論として読める強度を持っているように思える。


■ また欽ちゃんこと萩本欽一さんに関する文章には唸らされる。

コント55号のコントにあるのは、二人の決定的な対立であり、断絶である。正気の世界にいる坂上二郎のところに、狂気の世界からきた萩本欽一が現れて、徹底的に小突きまわす。それは、とうてい、マスコミが名づけたような<アクション漫才>というようなものではなく、イヨネスコ的世界であり、その狂気は主として萩本の内部から発していた』

萩本欽一という才能に関しては劇作家宮沢章夫さんの日記にもとても興味深い考察(ここの3日の日記に)がある。この宮沢さんの文章に書かれてある萩本欽一さんが見つけた『テレビというメディアの本質』について『日本の喜劇人』で小林信彦さんは<テレビ=ドキュメンタリー>説こそ萩本欽一の発想の基本だと書いている。非常に面白いので興味のある方はごらんになってみるといいと思います。


■ なんにせよ、そうやって8月9日は更けていくのでした。