東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『早稲田大学へ』

■ 電車に乗ったところ、その車両には幼稚園児かせいぜい小学校の低学年と思われる子供たちがたくさん乗っていた。みなリュックを背負っているところを見るとどこか電車で遠足にでもでかけている模様。


■ なんとなく彼らを見ていると面白いことに気付く。彼らの会話は続かない。誰かが何かを話しても、話しかけられた子は会話に集中しないで車窓からの風景を見ることに熱中してしまったり、座っている座席のクッションの感覚を楽しんだりしている。じゃあ話をしている子はつまらないのかというとそういうわけでもなさそうで、その子はその子で自分が発話すことに飽きたら別の行動を始めてしまう。


■ 誰かがつり革を掴もうと手を思いっきり伸ばした。やっとの思いでつり革を掴むとしばらくそのままにしていたが、やがて興味を失ったのかつり革から手を離した。それを見ていた別の子がその子と同じようにつり革に手を伸ばした。けれどさっきつり革を掴んでいた子はもうその子のことは見向きもしないで窓の外を眺めている。それぞれの子供たちの意識(≒興味)はどんどんと別のものに移り変わっているように見える。


■ その時、意識を共有する子供同士が集まって何かを始めて、意識が逸れた子供たちからその空間を離れて別の空間に移動する。そこには大人が考える秩序とは別に子供たちの集団を形成する何かがあるように思えた。


■ 21日(金)。お昼過ぎから早稲田大学へ行く。劇作家宮沢章夫さんが早稲田大学で授業をされており、その授業にもぐりこむため。JR高田馬場駅から早稲田大学へ向かうその名も早稲田通りはなんとも学生の街の雰囲気がある。当然、歩いている学生の姿が多い。食堂や喫茶店、さらにラーメン屋がたくさんある。あと古本屋が多い。散策しながら通りを歩いていると早稲田大学が見えてくる。早稲田大学はでかい。規模は僕が通っていた大学とは比べもんにならない。それでも例えば立て看板による学生自治会やサークルの新入生勧誘の告知が入り口に置いてあったり、屋外のベンチで学生が座って話をしている風景にはどこか共通のものを感じる。そこには大学独特の雰囲気ってものがある。改めて思うけど、僕はその雰囲気が好きだ。ホームページで少しだけ情報を収集して乗り込んだのだけどやはり教室が判らず迷子になった。もうダメかと思ったところで授業や教室について書かれた掲示板を見つけてなんとか教室に辿り着いた。


■ 『文芸選択演習』と名付けられたその授業は身体とか書く事について宮沢さんが実作者の立場から講義をするというもので、今回のテーマは『コンピューターで書くこと』についてだった。コンピューターを考える前提として、1968年に公開されたキューブリックの『2001年宇宙の旅』ではコンピューターは人を支配するものと見なされていたが、1977に年アップルによって発表されたパーソナルコンピューターはコンピューターを個人のものとして解放するものであった。パーソナルコンピューターの開発は60年代にあった様々な支配や抑圧から自己を解放しようとする思想と関連付けて捉えることができると宮沢さんは語っていた(と思う)。


■ そういった考えをふまえてコンピューターで書くことを考えると、利便性や生産性だけを目的としてパソコンを使って書くというのは、コンピューターで書くことの本質から逸れているのではないか。誰にも見やすい文字で書ける。間違いを簡単に修正できる。そういったことだけではないもっと別の意義がコンピューターを使って書くことにあるのではないか。


■ そこで宮沢さんは人の脳(≒思考)は秩序から遠ざかろうとする作用があることについて語った。僕なりに解釈するとそれは先にあげた幼稚園児の例に近いものではないかと考える。子供だけでなく大人も何かを話している途中に話があらぬ方向に脱線したり、話を聞いてるふりして違うことを考えていたりすることがある。子供と違うのは他者を意識することが出来るからそれを表面に出さないだけ。一方で文書化は秩序に基づく行為。イメージを文字で書くという制約。また手で書くという行為は極めて遅く脳で思考する(閃く)速度に追いつくことができない。結果、脳でいくら無秩序な方向に思考が拡散しても手で書くという運動に至るまでにきちんと整理されてしまう。良い意味でも悪い意味でも。それは子供の行動が秩序とは別の働きによるところから生まれ、大人が想像もしない行動を見せるときの面白さに似ているのではないか。


■ コンピューターはこういった秩序化から逃れる手段として有効なのではないか。それは手で書くことに比べてパソコンを打つスピードが訓練次第で速くなる可能性があること。それに伴い、ある程度脳の中の閃き(つまり秩序化される前段階のもの)を文字化することが可能になる。そうやって思いつくままに書いた文章でもコピーや移動を使って簡単に構成できる。


■ さらにそうやって書かれたテキストはメールやインターネットによってより多くの他者の目に触れる機会を得た。そういった成果の一つとしてブログがあるのではないか。それまでは出版された文章だけが一方的に書き手から読み手に向けられていたが、ブログは読み手から書き手への返信が可能であり、それまでの『書き手→読み手』の関係性とは異なる『読み手⇔書き手』の(相互)ネットワーク型のコミュニケーションを作り出した。このネットワーク型のコミュニケーションは文章の発信によって逆にまた別の情報を受け取ることも可能になり、書いたモノを発表するだけに留まらない別の価値も生み出した。


■ コンピューターのこういった可能性は当然手書きを否定するものではないし、またコンピューターで無自覚に書かれた安易な文章もたくさん作り出されていることも忘れてはならない。今の僕たちは何かを書くときに手で書くだけではなく、コンピューターで書くという手段も獲得できたということ。どちらを選ぶのも個人の自由。ただ、コンピューターで書くということは手書きとはまた違う何かを生み出す可能性があるかもしれないのだから、もっとコンピューターで書くということについて意識的に考える必要があると宮沢さんは仰っていた(と思う、あくまで僕が見聞きして考えたことです)。


■ すごく楽しかった。エッセイやいろいろな文章で読んだことがあるお話しもされていたけど、話を聞くことで文章を読んだときとは違う発見がある。またアップルがパーソナルコンピューターを作った77年は宅急便のサービスが開始されたり、パンクが出現した年でもあったという。直接コンピューターとはつながらないのかもしれないけど、コンピューターの進化によって宅急便等のシステム管理の効率はどんどんあがっていったのだろうし、自己の解放といった思想を背景に新しい音楽としてパンクが出現したとも想像できる。さらに77年は宮沢さんが大学を休学された年だそうで、個人的にも印象の強い年だったとか。そういった脱線話も面白かった。いやはや気分はすっかり大学生。今後も出来る限り、授業を受けたいなぁと思いました。