東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『さくらプロジェクト/責任/years』

すごく晴れて暑かったと思われるけど、それほど実感はないのは働いている職場では窓から入ってくる風がとても気持ちよく、空調なんてつけてなくても快適だったから。暑がりだし、汗っかきなのだけど個人的にはエアコンはあまり好きではない。夜になると涼しくなって、窓の外を見ると雨が降っている。


福島県飯館村で18代にわたり農業を営んでいる菅野さんという方がいらっしゃいます。飯館村は3・11の原発事故後、避難区域になってしまい、選択を迫られた菅野さんは北海道に移り住むことになりました。それでも想いは故郷である飯館村にあり、いつか戻れるように、子どもたちや村の人たちが桜を眺めて安心しながら農業ができる日が来る様にとの願いをこめて『さくらプロジェクト』というプロジェクトを行っております。寄付の代わりにポストカードを購入する形で、桜を植える資金を支払う形になっています。僕は先日、友人のfacebookで知り、微力ですがポストカードを購入しようと思い、菅野さんの連絡を取らせてもらいました。とても丁寧に対応していただき、素敵な5枚の写真が載っているポストカードを頂きました。とてつもなく広大な牧草地の写真。どれほどの想いがその場所に込められていたか。どんな想いで、その土地を離れなければならなかったか。僕には想像もつきません。だから『知る』しかできないので、とにかく知ろうと思います。


僕自身は、自分が生きていくだけで精一杯で、嫁氏や娘子、そして猫と手に届く範囲を「責任」持って暮らしていくのも正直精一杯です。まさに直前まで無職だったし。多少の金の持っている持ってないはあっても、人一人が「責任」を持って守れるものなんて、結局手に届く範囲だと思います。
国政を担う人だって、僕らと変わらぬ一人の人であって、彼らが「責任」って言ったところで彼と彼の家族を守るくらいが精一杯です。何かあって「責任」とりますって言ったところで、「ごめんなさい」と謝るしかできない。僕だってそう。

人が出来る範囲のこと。そこに「責任」を持つこと。

どう考えても「責任」で背負えるものじゃないものを背負わせることは、そもそもおかしい。きっといろいろ大き過ぎてしまったのだと思う。「日本」ではなく、一つの県でもなく、一つの地区でもなく、手に届く範囲の『群れ』が、手に届く範囲で「責任」持って生きていくくらいが、人間の、というか生き物の精一杯なのではないか。

少なくとも、そういった一人一人の責任の場を、勝手にぶちこわすような真似は誰もしてはならぬと思うのです。


ドイツのアーティストBartholomaus Traubeckによる木の木目を読み取って音に変えた「years」の豊穣さは、木の生きた証である、年輪が,少しずつ積み上げられたものが一音一音連なって音楽になったことから得られる。紛れも無く『音楽』であると思える。ひたすらこれを聴く。今日みたいな、大きな分岐点になるような日。外は雨。じっと音楽を聴く。