東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『日曜の仕事と読書』

朝、目が覚める。8時過ぎくらい。もっと寝てもよかったかもしれないが、やることもあり朝ごはんを食べて、それから掃除機をかけて、仕事に出かける。緊急事態宣言下、リモート中心とはいえ、郵送しなければならない書類関係などがいろいろあり、それらをまとめて作業。やらねばならないことは次から次へと。

陽射しが強く暑かったので、半袖。一応、万が一を考えて上着は持ってきたけど、要らなそう。郵送しなければならないものたちをポストへ投函。ようやく一息。せっかく陽射しも気持ち良いので、どこかへと思い、ふと、竹芝の方へ息抜きに出かける。電車は空いていた。それが日曜だからなのか、緊急事態宣言下だからなのか、もうよくわからない。

浜松町までついて、そういえば昼ご飯を食べてなかったのでお腹が空き、立ち食いソバの店で春菊天蕎麦を食べる。胡麻が置いてあったので、やたらめったらかける。少し店員さんに失礼なのじゃないかと思うくらいかけてしまった。たんに胡麻が食べたかった。

それから竹芝の方へ歩き、海が見える公園に。特に観光地というわけでもなく、住宅街でもないので人はまばら。ベンチに座り、いとうせいこうさんの小説『想像ラジオ』を読む。『福島モノローグ』を読み終わったら無性に読みたくなった。

竹芝の公園から、レインボーブリッジが見える。その先にはお台場がある。観光船がたくさん目の前を行き来していて、たまに大きな船も横切る。船体に小笠原と記載があったから小笠原諸島へ行く船なのだろうか。空をみると、雲があり、刻々と形を変えていく。鳥が飛んでいる。2羽でほどよい距離感で飛んでいる鳥がいて、なんだか遊んでいるようにも思えた。鳥には鳥で生きていくために飛ぶという手段はあるのだろうが、たまには遊ぶように飛ぶこともあるのだろうか。

『想像ラジオ』は一気に読んでしまった。死者の語りを、筆者が想像し、DJとして語る。その言葉は生きている者には届くはずがない。だけれどもそれを生きている者が想像することはできる。ゆらゆらとした悲しみのようなものかもしれないけれど、それを抱くことで、生きている者の中に死者が存在できる。

 「・・・生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ

(中略)

だから生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕らの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ」

文庫本の解説で星野智幸さんが植物の木について書いている。木はその性質上、輪切りにすると表皮があり、その内側に形成層という水を吸ったり、養分を下ろしたり、細胞分裂をする部分があり、そこは生きているが、その内側は死んでいるのだという。つまり木は、若く生きている部分が死んでいる部分を包んで直立しているのだという。

日が暮れてくると、海沿いは風が強くなり、半袖ではとてもいられない。ここにきて上着を持ってきたことが正解だった。一息ついてから、駅へ。東京タワーがキラキラとしていた。羽田から来たのだろう大きなトランクを持った人が東京タワーに携帯を向けていた。大江戸線から帰路へ。微妙に手間のかかる乗り換えはあるものの、まぁ、それはそれで。

家に帰り、筋トレをして風呂に入る。少し長めにゆっくりと。出てからビールを飲みつつ、ぼんやりとバラエティを観る。と家人が降りてくる。いつまでテレビを見ているのかと。それと他にも少し話をする。

徐々に眠くなってきて、ようやく微睡んできたので、布団に包まる。