東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『牯嶺街少年殺人事件』

tokyomoon2017-07-14

それにしても、いよいよ梅雨が終わったかのような陽気で、カラッとして気持ちよく風が吹くとまだ涼しい。たまに晴れているのに雨が降るという変な天気になり、ゲリラ豪雨とは違う不思議な雨はなんなのだろうと思う。


そういう時期なのかもしれないが、娘は何か自分に納得のいかないことが起きると、ふてくされ無言になったり、口論をしたりする。あと、例えば、「○○くんが、交通事故で死んじゃったらどうしよう」というかどうしよもない想像をしてしまい、悲しくなっている。「交通事故が起きる前に気をつけるしかないじゃないか」と言うと、そういうことではないらしく、やはりどうしようもない想像をして悲しくなっている。一方で機嫌が良いと妙に明るい。


職場の同僚と話題にしていたエドワード・ヤン監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』。観たい観たいと思いつつ、4時間弱の作品ということで、怯んでいたが、「これはやはり観にいかねばならない作品ですよ」ということになり、2人で渋谷のアップリンクへ。4時間弱の作品で、さすがに後半は疲れたけど、作品自体はとてつもなく面白かった。

デジタルリマスターされた映像で、日中の風景は草木がとても美しい。一方で暗闇の深さが際立つ場面と多い。劇場のような空間だと、暗い場面でも、暗さの濃淡で人物の動作がわかる場面があり、中盤の大雨の中の立ち回りシーンの緊迫感たるや凄まじい。


淡々と進んでいるようにみえるけど、キャラクターが個性的で、一人一人を見てるだけでも面白い。主要キャラクターは年齢ではなく個性でキャスティングされてるのではなかろうかというほど、年齢がわからない。友人の1人はやけに背が小さく、画面上をウロウロするし、ヤクザまがいの1人は、坊主と巨躯で1人だけ威圧感が半端無い。そしてハニーと呼ばれる青年のファッション感覚は、なにか蛮カラを思わせつつもカッコいい。父親や近所のオヤジの時代からの取り残され感も。群像劇として、主要キャスト一人一人の物語も描かれてあり、それぞれ妙な愛着のあるキャラクター描写。

物語の冒頭から登場する懐中電灯を、物語の終焉間際に主人公が手放す場面で、登場人物の映画監督に対して、主人公が想いの丈を叫ぶシーンの切実さ。青春映画そのものだし、家族ものの作品だし、歴史モノとしても成立している。もっと台湾について深い知識があれば、父親の世代がかかえる昏さも身に染みるのだろうと思う。


近所のオヤジが酔っ払い、酩酊して街を徘徊しているところを目撃した主人公は、オヤジの後をつけて、ふとブロックを手にする。が、突如オヤジが苦しみだし、側溝に落ちたのでそれを助けて、結果命を救うことになったが、そういうことになってなかったら、あそこでおそらく主人公はそのオヤジを殺していたのではないか。「彼に命を救われた」と嬉々としてオヤジは後ほど語るけど、紙一重の危うさの中に若者たちはいて、その結果が悪い方向に転ぶ結末もまた、ある種の衝動の結果としか言いようがなく、その結果につながるような理由は、彼が少女と出会い、少女と過ごした一年間(もちろん、少女以外の友人や家族との日々も)のすべての結果が、その行為につながったとしか言いようがない。
4時間弱は、映画としては長いけど、彼が過ごした一年間を描くにはその長さが必要だったと思われる。


こういう作品の持つ強度はいつの時代になっても揺るがないのだろう。