東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『火曜日』

火曜。朝、いつものように目が覚めた。リビングに降りると、母がパンを焼いてくれていた。チーズをのせたパン。「焼いとくから」と言われて、僕も、うん、と言って、水を冷蔵庫から出してコップに注いだりしていた。すると、兄の携帯が鳴り、兄が慌ててリビングから離れた。その慌てぶりから、母も僕も、どこからかかってきたのか、察しがついた。「食べちゃいな」と言われたので、急いでパンを食べた。リビングに戻ってきた兄から「父が、もう、危ないらしい」と言われた。急いでタクシーを呼び、それぞれ支度をする。

 

平日の朝、まだ8時台だったので、通勤の時間で、国道は渋滞だった。年配のベテランのオーラの漂う運転手さんは、最初は無口だったけれど、ひとたび言葉を発すると、徐々にエンジンがかかってきて、この道はああだ、あの道はこうだ、といろいろと説明をしてくれた。

 

人によっては、急いでくれって文句を言う人もいるよ。だけどさ、スピード違反で捕まったらこっちもダメだからさ。商売できなくなるしね。だから、そういう時はね、確認するんだよ。『どうしても急ぎますか?』って。それで『急いでくれ』って言ったら、じゃあ、本部に電話しますって言うんだ、そうするとね、ほとんど黙っちゃうね。うちらもサービス業だからさ、断るのはダメなんだよ、だからね、そうやって対応しないといけないんだ。

 

きっと、ずっとこの土地でタクシーの運転手をしているのだろうなぁと思った。僕は運転席の後ろに座っていたからはっきりとはわからなかったのだけど、父と同じくらいの歳のようにも思えた。そういえば、タクシー運転手に定年はあるのだろうか。

 

運転手さんの提案で、国道を外れて路地を進み、病院に着いたのは9時手前くらいだった。兄が「電車で行った方が良かったかな」とつぶやいていた。病院はすでに開院している時間なのか、どんどんと人が院内へ入っていった。僕らは、通常の受付ではなく、警備員さんのいる場所へ行き、そこで名前を告げると、入館のパスをもらえた。それですぐに緊急救命室へ向かう。もう3日連続になるので、さすがに道は覚えていた。

 

その部屋に入ると、早朝にも関わらず、いろいろと診察をする人、受ける人でごった返していた。昨日までいなかった人も何人か増えている。やはり出入りの多いところなのだろう。父は素人目には昨日と変わらない様子だった。実際のところ、父の容態は多少、安定しているらしい。早朝、血圧がだいぶ低下し、状況が悪くなったので、急遽連絡をしてくれたとのこと。血圧は上も下も70前後だった。

 

血圧は今朝に比べるとだいぶ安定しました。ただ、説明もあったと思いますが、上と下の差がありません。やはり、心臓の機能が復活していません。こういった状況が続いていると、おそらくこの後も回復の兆しはないと思います。さらに血液をいれつづける必要がありますが、それをやり続けると、どんどんとむくんでしまい、お顔も判別がつかないようになってしまいます。もちろん、治療は続けられます。続けられますが。

 

3日目にして、また昨日までとは別の先生が説明をしてくれた。母も、兄も、僕も、現状を理解していたし、選択はもう決まっていた。兄が先生に諸々伝えてくれた。主治医の先生が会釈をして、装置を止める準備を始めた。「お父さん、よくがんばったね」と母が言う。それから近くにいた看護士に小声で「研修医を静かにさせるように」と告げた。時間的に、朝のミーティングのようなものがあるのか、確かに周りには多くの先生がいた。当たり前の日常と、非日常が同居している。ここでは、非日常が日常になっている。それはやはり、僕には想像もつかない大変な場所なのだと思う。父のベッドの周りはいつの間にかパーテーションで仕切られていた。こちらと、そして、周りへの配慮だろう。隣のベッドから看護士さんが寝ている患者さんに「どうして死のうと思ったんですか」と質問をしている声が聞こえた。聞き間違いかもしれないが、そう聞えた。

 

父の手に触れる。血流を流れやすく、凝固しないようにするため、体温を少し下げるようにしているのだという。それでも父の手は当たり前だけど、暖かい。それからすぐに、よくドラマなどで見る脈拍の動きを伝える機械が、耳に響く音をならして、それから動かなくなった。

 

9時14分

 

それは本当にそういう風に言うものなのだなと思ったが、主治医の方がそれを僕らに伝えてくれた。パーテーションの向こうは、ここにある日常が、何も変わらず続いていた。

 

控室に戻ると、これから装置を外し、父をきれいにしてから移動させるから少し待つようにと言われた。兄はその間に少し電話をして、身内に報告をしてくれた。その後も、動き続け、いつの間にか葬儀の手配も行っていた。病院の近くの葬儀屋にお願いすることになった。

 

それから、ずいぶん経ってから、移動しますと案内を受けた。地下のひと気のない場所へ移動すると、霊安室と書かれている部屋が2部屋ある地下のフロアーへ案内された。結構大きい病院なのに、2部屋しかないんだなと思った。そのうちの1部屋に父がはいった。175センチは無いと思うが、ベッドは身長ギリギリだった。それより大きいと特注になってしまうのだという。とすると、僕は身長が越えてしまうのだろう。装置を外された父はなおさら寝ているようだった。

 

人は何をもって、生きている、生きていないが判断されるのだろう。すでに搬送された段階で、心臓は停止していて、脳もその機能がほとんど動いてなかった。目に光を当てて、瞳孔の収縮を見る対光反射も無い状態だった。結局、意識が戻ったわけではない父は、人工心肺によって血流はあり、いくつかの機能はそれによって生かされている状態だった。今、その人工心肺が取り外されて、機能が全部止まった状態の父は、穏やかで寝ているようだった。生きていると、生きていないの境目はどこなのだろう。まだ頬に触れると、肌の質感は当たり前のようにあって、少し人の脂というのか、そういったものも感じられるような気がする。それでも、父は、もう呼吸もしてないし、僕に何も返してこない。

 

ほぼ、特に何も考えず、携帯でその顔の写真を撮ると、それまで何も言わなかった兄が「やめろ」と言った。それは、やめろ、俺は違うと思う。そういわれて、僕も、ごめんと言った。

 

父は自宅の段階ですでに心肺停止だったので、警察の方が検死と、僕らへ事情徴収をするという。それで、警察の人たちがきて、手分けをして、検死をする人、事情徴収をする人にわかれて僕たちはいろいろと状況を説明した。結構長い時間、説明をしたのに、現場検証ということで母が警察の人と自宅に戻り、僕と兄は控室で待つことに。その間に、病院の、今度はスーツをきた入院係という担当の人からその後の段取りを説明され、病院を出るにあたり、父の着替えが必要、とのことだったので、病院内にあったローソンで浴衣を買い、それを渡した。ついでにさすがにお腹が空いたので、兄とコンビニでおにぎりなどを買った。病院係りの人から説明を受けたが、それはつまり、父を今日のうちに移動させねばならないということだった。近くの葬儀屋を案内することはできるが、と言われたが、すでに兄が手配を進めていたので、そのことを話し、依頼をした葬儀屋さんの名前を告げると「あ、わかりました」と言い、こちらからも受け渡しが可能な時間を葬儀屋さんにも伝えておきますと言ってくれた。よくある出来事なのだろうし、近くの葬儀屋さんとも懇意なのだろう。それからしばらくして、母が病院へ戻ってきた。

 

母は僕が買ったカレーパンを見て、ちょっと頂戴というので、それを渡した。おなかも空いているだろうから、あんぱんも半分食べる?ときくと、「いいいい」と言いながら、半分ちぎって渡すと、それも食べた。警察がいろいろと調べ物をしていたことを母が話してくれた。財布の中身もすべて取り出して写真を撮ったということを驚いていた。それから、母はなぜか警察の方に、保険のことはどうしたらいいのですか?と聞いてしまったらしい。警察の人は言ったという。「保険の人に聞いてください」。それはそうだろう。母は、僕に、「間抜けな母でしょ。こういうの、本を書く時に使っていいから」としきりに言ってきた。

 

それから、父を移動する準備ができたと連絡を受けた。家に連れて帰る人もいるらしいが、家も手狭で、葬儀をする場所で預かってくれるということで、そこに移動してもらうことになった。白衣を着た葬儀屋の方がいらした。病院からもらった死亡診断書を葬儀屋さんに渡す。それが無いと、移動もできないらしい。霊柩車ではないが、黒いハイエースを改造したような車が駐車場に停車されていた。そこに父を運ぶ。病院からお医者さんと看護士さんが代表して1名ずついらして、最後に父に挨拶をしていった。看護士さんは見覚えのある人だったけれど、お医者さんはまた新しい人。チームだな。チーム制だ。でも、そうじゃないとまわっていかないだろう。父を移動する車は人数の都合上、2名しか乗れなかったので、兄と母に乗ってもらい、僕は葬儀場まで電車で移動。15時過ぎあたり。電車の中はいつもと変わらない風景。いつもと変わらない。

 

葬儀場に移動すると、またしばらく待たされてから、先ほど白衣を着て父を引き取りにきてくれた方が、スーツ姿で登場した。それから葬儀の打合せ。父は九州に本籍があり、そこのとある寺の檀家になっていたので、そこの住職さんに確認をとらないと葬儀の日取りは決めれないらしい。そういうものなのか。で、住職さんの連絡先を調べて、電話をかける。こういうコロナの状況もあり、住職さんがこちらにいらっしゃることもできないので、すべてお任せするとのこと。それで日取りを決めたり、いろいろ始める。

 

お通夜はせずに、告別式のみの一日葬。できる限りシンプルに、と思い、それを伝えるが、それはそれ、いろいろとある。花がどうだ、送迎バスはどうする、葬儀をする場所のサイズはどうだ、会食をだす、か、ださないか、などなど。その一つ一つに、どうするかね、などいろいろ話つつ、なんやかんや1時間以上は打合せをしていたような気がする。ようやく葬儀の日取りも決まり、いろいろ決めて、手書きの見積書をもらって葬儀屋さんをでたのは、もう17時過ぎていたと思う。電車に乗って地元の駅へ。何か食べていこうということになり、いろいろと相談した結果、駅の中のとんかつ屋へ行くことになった。いろいろとあり、どっと疲れつつ、お腹はすく。母は、海老フライのあるセットを頼んだが、お腹がいっぱいになったらしく、半分くらい残して、折詰にいれてもらっていた。

 

食べ終わってから駅ビルから外へ出る。外はもう暗い。駅前ロータリーにはお迎えの車がたくさん停まっている。ふと、父を思い出した。僕たちが家族で実家に戻る時、何時ごろに到着するかを伝えると、父が迎えに来てくれていた。ロータリーのところで車を停めて、僕らが駅から出てくると、ゆっくりと車から出てくる。普段、あまり表情を変えない父は、孫がきても「久しぶりだね」くらいしか言わない。緑内障などを患ってしまってからは、運転を控えていて、最近は、もう車を売っていた。日常生活には支障がないらしいが、目が見えずらい生活は大変だろう。父は僕らに、あまり自分のことは話さないので、実のところ詳しいことは知らない。どこかの誰かの車が、ハザードをつけて止まっている。ライトを点滅させている車は、誰かを待っている。ああ、父も、そうやって僕らを待ってくれていたなと思ったら、無性に寂しくなった。

 

家に帰り、一息つく。どういったわけか、父は、実家とはまったく関係ない関西のどこかの街が作っているエンディングノートに、自分が死んだ後のいろいろな引継ぎのようなものを書いていた。いつの間にそんなものを用意していたのか。遺言ではないが、希望のようなものが書いてある。と、言っても何か主張をするでも無く、端的な言葉で、家族に任せる、というニュアンスのことが書いてあっただけだ。残された家族へメッセージ、という欄もあったが、そこは何も書かれていない。「なんも書いてないよ」と兄や母が笑う。それもまた父らしい。そして、入院を伴う治療が必要な場合、どうするか、という項目があり、父は治療はしない、というところにチェックをいれていた。その理由がずばり

 

「延命の価値無し」

 

それだけが父の尖った癖のある筆致で書かれていた。

 

あまりモノを言わない父だった。死ぬときはあっさりいきたいと願っていたのも、らしい、と思う。結果だけ見れば、それが叶った形で、病気で苦しんだり、事故で亡くなって後悔が尾を引く、ということもなかった。父らしい最後といえば、そうなのかもしれない。

 

そうやって、その長い一日はひとまず終わった。