東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『水曜日』

水曜。自分でも拍子抜けするほど、この日も当たり前のように目が覚めた。リビングに降りると兄も起きていた。兄がいろいろな手続きを僕らがいるうちにやろう言った。葬儀屋に花の申し込みは、霊前に飾る写真を持っていかねばならず、兄がそれをやるから、僕には役所に行って、年金やら返納するものやら、やらねばいけないことを確認するようにと言われた。僕は言われるままに、動くつもりだったが、その後、どういう経緯かわからないけれど、結局のところ、兄がすべてをやることになり、急ぎ足で、家を出た。僕は家に残り、特にやることがなくなってしまったので、母が洗った洗濯物を干したり、自分の仕事を少し行った。

 

昼になり、母が冷や麦を茹でた。家にいたころよく食べた冷や麦で、茄子や豚肉をいれた麺つゆにくぐらせて食べる。「野菜が取れるからね」と母が言う。役所などに行った兄に確認するでもなく、多めに冷や麦を茹でて、案の定、余る。そして、兄に確認をすると、昼ご飯は要らないとのこと。なぜ、確認してから茹でないのだ。

 

母と少し話をする。自宅で心肺停止になった時、父が普段は言わない大声をあげたという。そのことを母はしきりに繰り替えす。時間にすると3秒ほどか。苦しんだ時間。あの時、父がもうこと切れてしまったと感じたから、その後、覚悟はできたという。日曜から、何度も聞いた話だ。ふと、話すのを母が止めた。それから、独り言のように言った

 

「でも、くやしいね」

 

母もわりとあっさりした性格で、仕方がないことは受け入れる人だった。もちろん、父の死を一番悲しんでいるのは母であることは間違いないと感じていたけれど、その一言が、僕にとって、母が一番、父を想っていたのだと感じさせる言葉に思えた。

 

昼ご飯を食べて、少し、父の仕事関係で、電話。父が退職後も年金のようなものを受け取ったり、会社経由で入っていた保険のようなものがあり、報告の必要があった。とはいえ、8年ほど前に退職している人なので、すぐにはわからないだろうと思ったら、しばらくしてから折り返しの電話が。「以前に取締役をされていましたよね、失礼しました。弔電、献花を手配いたします」となにやら、丁重にいわれた。知らなかったよ、取締役なんて。母に聞いても母もぽかんとしていた。本当に父は何も僕らには言わない人だった。ただ、こうなると、まるで、何かを催促したような気になり恥ずかしくなった。僕らは単に、報告と、そういう保険関連を止めたかっただけなのだけど。まぁ、仕方がない。それから僕は少し眠くなってしまい、フローリングで横になった。ひんやりする。別に責めるわけではなく、母は、「父や兄はそうやって寝転がったりしなかった」と言ってきた。母はそういう事実を、結構普通に人に言ったりする。まったく悪気はない。ただ、そう思ったことをそう口にする性格である。僕はそれを知っているから気にせずフローリングでぐだぐたした。

 

午後になり、兄が戻ってきてから、またすぐ、家族で、出かける、司法書士の方に話を聞くという。はっきり言うが、司法書士という言葉は知っているが、意味はわからない。何をする人なのか正直なところよくわからない。兄がいつの間にか無料説明を申し込んでいた。出かける時間になり、お隣さんが父の様子を心配して顔をだしてくれたので、母がその対応をした。そういえば、いろいろな報告がまだちゃんとできてなかったが、今回は家族葬ということで近隣とはいえ、葬儀のことなどを伝えるのは控えておこうとなった。そういったことも話さなければならない。結局、自治会の代表の方だけ、ご出席していただけることになり、他の方はご遠慮いただくことにした。

 

兄に遅れつつ、母と僕も自転車で駅の方に向かった。司法書士の方は、駅近くのマンションを事務所にされていて、僕らもそこに通された。もちろん、言われたことは理解できるし、どうやらその方に、土地の相続についてのことをやってもらうらしい。僕らは、印鑑証明などを取ればそれでいいそうだ。あと、戸籍謄本。知らなかったが、父が亡くなると、父の口座なども凍結されるらしい。身内でも下ろせなくなるという。まぁ、そりゃそうか、と思いつつも、いろいろと面倒なことが多い。特に父の場合、いわゆる突然死になってしまい、何も準備ができなかった。まぁ、終活というのも嫌な話だけど、自分がそういう立場になると、誰かが死ぬということは非常に厄介で面倒な手続きが多いのだなと理解した。僕はともかく、母など、一番ショックを受けている人に、そういったものをサクサクと進めろというのは、酷な話だ。しかし、そういうことをどこの遺族もやっているのだと思うと、辛いことだなと思う。あと、単純に、お金もいろいろかかる。

 

司法書士の方との話を終えて、外に出る。母は、駅ビルで寿司の握りを夜ご飯に買おうというので、駅ビルへ行く。駅ビル、便利だな。食べ物はいろいろある。母はバスで帰ることになり、僕と兄が自転車で家に帰る。「土地のことはな、専門の人にお願いするしかねぇから」と兄が言う。僕は本当に何もわからないので、そのあたりは、言われるがままである。

 

家に帰ってから、ビールが飲みたくなり、1人コンビニへ行く。うちは、父も兄も酒を飲まない。なので、こういう場合、僕が自分の必要な分だけ買いに行くことになる。国道に出て、信号を渡る。家の周りは住宅街で、夜は静かだ。国道は都心へ向かう車は、他県へ向かう車が一日中、往来している。深夜はトラックが多い。国道4号線。いわゆる日光街道日本橋から青森まで続いている。大学を卒業したとき、北海道の大学から、愛車に荷物を積んで帰京した。その際、記念だからと青森から国道4号を走った覚えがある。国道には、小学校のころからあるマクドナルドが今も営業している。夜は少し風もあり、心地いい。もう、20年以上、離れている実家近く。たまにしか戻らない僕はすっかり余所者だ。

 

ビールを買って、ふらふら帰宅。寿司と共にそれを飲むと、母が少しくれという。父や兄と違って、母は少しだけビールを飲む。コップに少し注ぐと、ぐいと飲んでいた。