東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『犬王』

19日(日)。朝、起きて、洗濯、そして掃除機をかける。昨日もフローリングを水拭きしたりしたけれど、なんとなく今日も。そこまでの量の洗濯物ではなかったのに、なぜか途中でエラーで停まる。どうも脱水の際、重すぎて止まってしまうらしい。そろそろ洗濯機がガタがきているのかもしれない。なんやかんや10年以上、使用している。それから洗濯ものをベランダに干す。

なんやかんや昼近く。敷物をもって新宿御苑へ出かける。これだけ暑いとそこまで人はいないかなと予想したが、たくさん人がいた。日がガンガンに当たる僕がいつも座っているあたりは、いつも人がいない。今日も人はおわず、そこに敷物をしき、陽に当たりながらゴロゴロとして小説を読む。普段はあまり読まない類の、なんというかミステリー、ホラーもの、のような小説。ちょっとした描写の仕方がなんとなく説明的で、少し抵抗があったけれど、物語が進み始めると気にならなくなる。600ページ超の長編。読み応えあり。

そして、陽が強く、肌がヒリヒリしてくる。汗もダラダラとかく。近くの木陰にいたどこか西洋の国の子連れの家族がいらっしゃり、その子供たちが、遊びながら、こちらの様子を見ている。これがジャパニーズ日光浴である。

小説を読んだり、そのまま昼寝したり、穏やかに過ごし、なんやかんや日が暮れてくる。陽が傾いてくると少し涼しくて、なんだか気持ちが良い。600mlペットボトルの麦茶を事前に購入していたけれど、飲み切った。

習い事おわりの娘たちに連絡を取ってみたが、用事があるらしく、ならば僕も別行動をしようと、一人で映画を観にいく。バルト9で湯浅政明監督『犬王』。序盤、物語が起こり、神器の呪いで視力を喪った主人公の一人が京都へ向かうまでの展開は描写が素晴らしい。海に潜ったときの、水圧のごぼごぼという音や、砂浜に干された魚に群がる蠅などの飛び回る羽音、そういった細かい表現の良さ。視力を喪った主人公がうっすらとした視界の中で琵琶法師の師匠と出逢う描写もまた、アニメーションだからこその表現。湯浅監督の作品を拝見したときに体感できるよろこび。それが原作に書かれたものなのか、映画独自のものなのかはよくわからないけれど、実在したとされる「犬王」を大胆に、呪われた異形の存在として描き、その異形ゆえに、新しい表現として、平家を語り踊る表現者として立たせる。二人の出逢いは、ラストでも邂逅あり。中盤以降の描写は、ちょっと食い足りない部分はあったものの鯨の描写は、「マインドゲーム」の中盤の祝祭の踊りに感じた、壮大さもありつつ、舞踏の表現が、フィギュアや新体操といった、どこか近代スポーツの表現に近いものになってしまったことは残念な気がする。が、その後、足利の圧力により、独自の表現を禁じられた際、怒りの表情はするものの、わりかしすんなりとそれを受け入れる犬王の、そのある意味でのフットワークの軽さは、呪われていたがゆえの、誰にも無しえない唯一無二の舞踏が、呪いが解かれていくにつて、徐々に近代のそれになっていくこともまた、受け入れることへのためらわなさがあるのかもしれない。だとするならば、そのことにより、生き延びた犬王と、あくまでも自分の歌と表現を信じて、斬首された友魚が、わりとすんなりと死後に互いを受け入れるのはなぜなのだろう。

諸々さておき、刺激的でした。本当に面白い。帰宅して、筋トレ。「関ジャム」が面白そうな特集だったので、録画。充実した日曜。