東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『現在も過去も現存している』

朝起きたら、猛烈な雨、と、風。傘を差しても意味がないほど。春の嵐

職場で打ち合わせや、仕事いろいろ。抱えている問題ごとはいろいろある。一山越えたら、また次の山がある。打ち合わせを終えて、ふと、窓の外を見ると、雨が止んでいる。天気予報の通り。窓を開ける。

午後になると、心地よい風が入ってきて、気温も上がる。夕方、仕事の用で、渋谷へ。歩いていくと汗ばむくらいの陽気。このままこの心地が続くのなら、そろそろヒートテックとはおさらばできるかもしれない。

仕事を終えて、渋谷の富士そばで夕食。間違えて温かい蕎麦を頼んでしまう。こういう日に限って。そのあと、まだまだ陽ざしが気持ちよかったので、少しパルコの屋上へ。見晴らしが良い場所でのんびりできればと思ったが、みんな考えることは一緒のようで、屋上はたくさんの人がいて座る場所が無かった。コロナの終わりころ、この屋上は知る人ぞ知るみたいな感じと、自由に座れるシートがたくさんあって、のんびり寛げたけど、今はそれは撤去されている。まぁ、仕方がない。それにしても陽が伸びた。18時を過ぎてもまだ陽がある。春はもうすぐそこ。

それから喫茶店で、少し、「死の棘」や「泥の河」のDVDに付いていたブックレットを読み返す。

その中で、小栗さんがインタビュアーの方と対談しているのだけど、そのインタビュアーさんが

小栗さんの映画では、特に『死の棘』以降は、主観と客観の区別が不要になっている。例えば、戦時中の南島のシーンがありますが、あれはトシオだか誰だかが回想している、というシーンではない。あれは”現存している過去”それ自体なんでしょう。そういう過去は、主観的でも客観的でもない、ただ実存するんですよ。

と、語り、それに対して、小栗監督自身が

映画ではそももそ中とか内面などというものは写らない、と私は考えています。外しかない、事物、形としての「一なるもの」があるに過ぎない。だから僕は「映画での心理描写などしていない!」と言い張るのです。過去が現存しているように、「もの」がその時々の表情で現存を見せている。現在も過去も、その都度で、現存している、そこを撮っているだけなんだと。

と答える。時間軸でみれば、過去、現在、未来があるだろうが、過去は、今の自分がその過去のことを想うことによって生じるから、現在の自分の考え方ひとつで、おそらく変容する。同じ過去はきっと無いし、なんなら、過去が現在に作用する、ということだってあるかもしれない。これは、いとうせいこうさんが「想像ラジオ」で言っていた、生きてる者と死んでしまっている者の関係性とも似ている気がする。
過去と今を等価で、フィルムとしてつなぐことができる映画は、小栗監督がおっしゃているように、あらゆることを現存して、スクリーンに映し出す。

帰宅してから、ドラマ「不適切にも程がある」最終回を観る。これもまた、現在も過去も同じ地平に現存している。