東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『イニョン』

朝9時前、猫に餌をせがまれ、顔を肉球で押されて起床。餌をあげて、朝食を食べて、布団を干す。空は快晴で、ベランダで猫が寛いでいる。と、娘もまた同様にベランダで寛ぎはじめていた。

玄関をブラシとホースで洗い、庭の草むしりをする。家の前を、ご年配の女性が、僕と同い年くらいの女性に手を引かれて散歩をしていた。あれは娘さんか、それともヘルパーさんだろうか。ゆっくりと歩いていた。母は元気にしているだろうか。まったく顔を出せていない。土日に面会が出来ないのが悩ましい。

今日も今日とて、新宿御苑へ。敷物を引いて、昨日の読書の続き。「季節のない街」。テレビ版の第二話「親おもい」の話は、ほぼ原作通りだった。兄のキャラ設定は違うが、それ以外の筋は、将棋や落語のエピソードもほぼ一緒。母親や、焦点となる登場人物辰也の台詞もほぼ一緒。まとめあげる構成力。二話読み終わって、次は、「彼は早稲田で死んだ」を読む。革マル派の手にかかり、命を落とした川口青年の死をきっかけに、それまで黙していた一般学生たちが声を上げる部分は、実際のところわからないが、それが何か解決に向かったのかはわからないものの、熱のようなものを感じる。手前勝手なことかもしれないけれど、そうやって声を上げることは凄いことだと思う。

御苑は人が多い。園内放送で、3歳の女の子が迷子になってサービスセンターで預かっているというアナウンスが流れる。時間をおいて2回ほど。はやく見つかってもらえればと思う。

それから、また一息ついて、燃え殻さんのエッセイを読む。面白いなぁ。恥ずかしながらまったく存じ上げなかったのだけど、Twitterなどで人気の方とのこと。エピソードに対して短く的確な言葉で例えるのが面白いし、一つ一つの描写が、なんだか寂しさもあって哀愁がある。松尾スズキさんの「大人失格」を読んだ時のような面白さがある。僕が松尾スズキさんを知ったのは、大学一年生のころで、当時、お付き合いをさせていただいた2個上の先輩から教えていただいた。お住まいに「大人失格」があり、お借りして楽しく読ませてもらった。実は当時、その先輩はまだ別の方とお付き合いをしており、つまり僕は二股の相手だったのだけど、「まぁ、大丈夫だから」という言葉を信じて、ふらふらくっついていた。僕は地方の大学に通っており、高校まで女性とお付き合いをしたことがなかった恋愛経験値ゼロの僕は、何もしらなかった。ある日、その町唯一のファミレス、「びっくりドンキー」で深夜、あれはなぜだったか、その先輩と遅めの夕食を食べていたことがあった。たらふく食ってなんだか眠くなってしまい、ファミレスのテーブルでうとうと眠ってしまった。目が覚めたら、目の前に、先輩が付き合っていた男性が正面にいて、僕をじっと見ていた。チーズバーグディッシュを食べていたはずが、目が覚めたら(まぁ、女性の前で食って寝るなという大前提がありつつも)、本物の彼氏がいるわけで、それは、もう、驚くしかない。恋愛経験値がまだアリアハンレベルの僕はなすすべもなかった。それが、またなにも「びっくりドンキー」でなくてもいいのに。

そんなことを思い出したら、なんだか、ラブストーリーが見たくなり、渋谷で「パストライブス」という映画を観る。

韓国で暮らして、小学生のころに好きあっていた同士。女の子がカナダへ移住することになり離れ離れになる。お互い、別の人と付き合いがありつつも、どこかで意識しあう間柄に。女性はニューヨークで結婚をする。旦那さんとは英語でコミュニケーションをとるが、彼女の寝言が韓国語であることが旦那さんにとっては、どこか自分の踏み込めない世界があるのではないかと心配になる。

冒頭の、過去の韓国のシーン。学校から家路に帰る主人公たちは、まっすぐの道を奥からカメラに向かって歩いてくる。奥から前方へ縦移動。そして、やけに環境音が大きい印象。それが韓国の街の特徴なのかなとぼんやり観る。映画のラスト、ニューヨークにやってきた男を見送るため、家を出て、街を歩く二人の描写は、横移動で描かれる。その時の街の環境音も意識的に大きい気がした。

2人が歩くシーンは、意図的に、縦と横の描写の中で描かれて、一瞬、フラッシュバックで、過去の一点が挿入されるが、あそこを軸に、縦軸と横軸で交差する。いや、正確には交差しない。二人は、ぽつりと言葉を交わし、お互いの家へ帰る。

韓国の思想「イニョン」という言葉が映画の中で語られる。縁。それは現世だけではなく、過去に出会い(台詞で「パストライブス」と語れていた)があったかもしれず、それが今に繋がり、さらに、未来にも何かの縁があるかもしれないという考え方。

縦移動と、横移動を、意識的に使い、今その街の中に、二人をしっかり存在させた。「あの頃の私は、あの頃に置いてきた」的な台詞を主人公の女性は語るが、過去の自分は、もういないわけではなく、今、存在している、時間は、過去から未来への一方向だけではなく、縁で、そして、円のように存在している。

ただ、このタイミングで、二人は結ばれなかった。二人は、それぞれ、劇中で多くの選択があり、一つ一つを自分たちの意志で選びながら、結果、今を生きている。それぞれの人生を。『自分たちは結ばれない』と理解した。

もしかすると、自分たちが結ばれる今が存在したかもしれない、という想像は働く。しかし、それはあくまでも、想像。だからこそ、女性は、最後に、嗚咽する。絶対に叶わないことを悟り。それを旦那さんが優しく受け止める。三者三様に何かを得て、何かを得れなかった。それもまた「イニョン」なのだと思う。

帰宅して、筋トレしつつ、ぼんやり。今日はのんびりした一日。