東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『海辺でぼーっとする』

25日(日)。朝起きて、地元の神社でやっていた茄子祭り的なものに行ってみる。雑司ヶ谷なすと呼ばれ、かつてはたくさん作られていたという茄子や、練馬の農家の方が作った野菜などが販売されている。コロナのことはあるけれど、こういった行事が実施されることは良いもんだなと思う。

それから習い事に行く嫁と娘とわかれて、葛西の公園へ。海を眺めながらぼーっとしたかったので。海自体は、海開きはしているものの、遊泳は禁止のようだった。とはいえ、海に入るわけではないので、砂浜で半裸になり本を片手にゴロゴロする。が、敷物を忘れたのが失敗だった。さすがに草が尖って痛いのと、蟻が齧ってきて痛い。

陽射しは眩しいくらいだけど、風が吹いているのでそこまでしんどくなく、のんびりと一日、海辺で過ごす。タニノクロウさんの戯曲『虹む街』を読む。この小説の後半部分でも書かれているが、この先、こういった戯曲や舞台が劇場でかかる機会というのはどうなっていくのだろうか。多様性、拡がりという点で希望もあるけれど、自分が20代のころに比べると、演劇にしても映画にしても、何か自由さが喪われているようにも思う。根拠はそれほどあるわけではなく、肌感としか言いようがないのだけれども。ただ、この『虹む街』のような作品は作られて上演されている。国や県、市の援助があって成り立つ興行であれ、それが、文化的に「あり」とされている場所はまだ確実にある。そういった場所が今後もあることに感謝しつつ、作品を観れる喜びをかみしめる。

生の人間が生の生活を見せている。生の人間が目の前にいるだけで「今」を感じるところが映画と演劇の決定的に違うところかもしれない。過去があり、現在があり、未来があり、それらがすべて同時にある。三つの時間が同居した状態を「今」というのかもしれない。

舞台では語られなかったこういった言葉に出会えることもまた戯曲(というか小説?)の素晴らしさ。三つの時間。確かにそうだとハタと気づかされる。

夕方になってもまだまだ陽が長く、「虹む街」を読み終わり、ぼんやりとして、葛西の海沿いを防波堤の方へ歩く。と、砂浜の中に、なぜだか木がぴょこっと出てる場所があり、その『サクリファイス』感が良い。羽田空港から飛び立つ飛行機が耳の奥を震わせつつ、高い空の上を行く。見上げると、太陽が目に入り、その眩しさで目がくらむ。

背中やお腹がひりひりとしだした頃に、程よく日が暮れ始めたので、公園を出る。嫁と娘と合流して池袋で夕食。食べ終わってからコンビニで買い物をして、ついでにデザートを食べる。雲が少し出てきて、今日は月が見えない。

家に帰り、娘と録画していた『古畑任三郎』を3話分観る。娘は母に許可を得たと言って、今日は少し夜更かし。刑事ものが好きな娘である。連休の終わり。